出産後全身にアトピーが拡がってから3年以上、実家に帰ってきてから1年半近くが経過していた。
漢方の病院通いも止め、保湿剤をつけるくらいで、治療らしいことは何もしない生活になった。
「日にち薬」だけが頼りだった。
病院通いを止めたのを機に、IgEを含めた血液検査値の測定もやめてしまった。
それまで、通院で測る度に上がる一方のIgE値は、見る度に、私を滅入らせていた。それは遂には蟻地獄に嵌り込んで行くような感覚にもなっていた。
夜の来ない朝はない、こんな日々がいつまでも続きはしない、と信じてはいたが、何の保障もないことだ。保障のない未来が不安だった。
経過を追いたいという興味も、追うべきという義務感もあったが、結果を見るのが恐いという感情と、身体のつらさによる意欲の減退が、それに勝っていた。
治療も検査もしない暮らしで、何をしていたかというと。
前の年に、療養生活の時間を多少なりと有効活用しようと、パソコンを購入していた。
インターネットを繋ぎ、興味は自然にアトピー関係の話題に向かう。
その頃はまだホームページも少なく、「アトピー性皮膚炎」で検索して出たサイトのほとんどに目を通すことができるほどだった。
治療の情報を求めて見始めたそこには、教科書には載っていないような、玉石混交の様々な情報があり、とても興味深かった。
しかしそれだけではなく、そこには脚色されていない患者の「生の声」があった。患者同志が語り合うことのできる場があった。
自宅に引きこもり状態でいながらにして、家族以外の人の語らいに触れ繋がりを持てる。
それは外出したくてもできない者にとって、実に福音だった。
孤独感は薄まるし、つらい気分を紛らすこともできる。
遠方の人でも変わりなく繋がり、同じ事に興味を持つ人を探しやすいという点も素晴らしい。
その上多数派や権威者でなくても確かな場が持てる。
行き場のない心が、随分インターネットで慰められた。
そこで知り合い、少しずつ交流を進めて、貴重な友人も得ることができた。
それはどれほどありがたいことだったか。
また、情報収集と、無聊を紛らすために、本を読んだ。
医師の書いたいわゆるアトピー本を目につく限り読んだ後、病気とその治療に関する本に興味を拡げていった。
西洋医学が、世界の様々な医療のうちのひとつであり、私の(そして西洋医学の多くの医師の)知らなかった沢山のそれらの医療が、それぞれの歴史や伝統を持って受け継がれ、今も活用され続けている。
そしてそれらを代替(相補)医学として偏見なく捉え、西洋医学とともに活用しようという流れが、医師の中でも起きて来ていることを知った。
西洋医学は、強力な対症療法(症状を抑える治療)をその骨子とするので、救急や病気の急性期には強いが、慢性の病気では長期的に見て結局良い結果を出せなくなることも多い。
アトピーは、代替療法が適応されるべき見込みのある病気のひとつといえるだろう。
身体の病気と、心や精神との関わりに関する本も読んだ。
1970年代以降に発達してきた、精神神経免疫学という分野である。
神経系・内分泌(ホルモン)系・免疫系が、体内で独立して別個に活動しているのではなく、相互に影響を与え合っているということも近年になって漸く分かってきた。
さらに、からだとこころも、ひとりの人間の中で、分かち難く複雑に結びつき影響を与えあっている。
こころが病むとからだも病む。こころの力がからだを救うかもしれない。
身体を機械、臓器を部品のように捉える西洋医学には、こうしたアプローチはできない。
自律訓練法やイメージ療法は、本で勉強して実際に自分に試みてみた。
不安定で不安感の強かった情緒が、落ち着けるようになった。
それに、自分の心の奥に目を向けることはとても気持ちがいい。
瞑想もしてみたが、これは痒みの感覚や雑念が払えなくて、うまくできなかった。
そうこうしている内に、早いもので娘が幼稚園に入る年になってしまった。
私が働いていないのだから、保育園は無理、幼稚園に入るしかない。
毎日の送り迎え、お弁当作り、容易ならぬ世話の全てを、母が娘のためにしてくれた。本当にありがたかった。
この時もし母がいなければ、娘は幼くして社会生活から脱落する羽目になっていただろう。
病人のいる家庭では、余人の伺い知れない、打ち明ける訳にもいかない、問題が生じる。
当たり前とされていることが、当たり前にできなくなってしまうのだ。
娘のアトピーはこの頃には、頚〜鎖骨部・肘の曲がる所・股のまわり・膝の裏などの限局した部分以外はほぼきれいになっていて、集団行動に支障をきたすことはなくて済み、ほっとするとともに、運が良かったと天に感謝した。
そんな中で、私のアトピーの症状はようやく底を打ち、ごくごく緩やかな回復の経過をとりはじめた。その後数年以上に渡る、気の遠くなるような長い長い亀の歩みであったが。
病状の改善の程度は、皮膚のきめの改善と行動範囲の拡大で測ることができた。
皮膚のきめの盛り上がった所を皮丘、へこんで皺になっている所を皮溝、皮丘と皮溝を合わせて皮野というのだが、慢性湿疹ではこの皮丘・皮溝とも大きくなり、「皮野が著明」という状態になる。
いわゆる「きめが荒い」、象の皮膚のような状態である。
私の皮膚は、ひどい所で皮丘が数mmほどにもなっていた。
それが僅かずつ、縮小して行ったのである。
そして私を動けなくしていたのは皮膚の痒みと痛みだったので、それらがやわらいだ分だけ、行動範囲がこれまた少しずつ、拡大していった。
行動するのに、夜は痒みがひどいし、朝入浴するとかさぶたなどが取れてしまうので、一番動けるのは夕方だった。
娘が幼稚園に行き出した頃、夕食の後片付けからできるようになった。
(食器を洗うには、もちろん綿の裏打ち付きのゴム手袋が必要で、これがなくても洗えるようになるには、その後2年くらいを要した。)
上半身はいくらか楽になり、アトピー以外のことも少しなら考えられるようになりだした。
出て来なくなった私を心配して、友人が連絡をくれたり、様子を見に来てくれたりもした。
2年余ぶりに、人に会って楽しい一時を過ごさせてもらった。
座って話ができる体調にまで回復していたことを感謝した。
その時気付いたのだが、ひどくなって以来、私は、「笑う」ということを忘れていた。
笑いが自然治癒力を増強するということ(笑いで自らの膠原病を治したノーマン・カズンズのことも)を既に本で読んで知っていたはずなのに、笑うことのない日々を過ごして来ていた。
スナップ写真の自分の顔を振り返ってみると、病にやつれて口をへの字に曲げた「不幸な顔」ばかりが並んでいた。
苦痛は表情を、さらには人相を歪めてしまうと思った。
そのことに気付けたのは、病状の改善によりいささかは気持ちに余裕ができはじめたからだったろう。
苦痛に潰されてはいけない。笑える時には笑い、苦しい人生でも楽しまねば。それでもまだ私は生き続けることを許されているのだから。
そう、我が身を励ました。
食事の後片付けができるならと気をよくして、母が疲れている時に一度代わりに料理をしようと台所に立ったことがある。
これは悲惨だった。
荒れた手がしみるのはどうにか我慢ができて、野菜を洗い切る下ごしらえはこなしたが、炒めはじめていくらも経たない内に異変が起こった。
ガスの火で身体が暖められて火照り、強い痒みの波が押し寄せた。
こんな程度の環境の変化にも身体が大きく反応して揺れ、耐えることができなかった。
ほどなく私はその場にしゃがみ込み、呻きながら波が去るのを待った。
料理は頓挫した。
たかが痒み、されど痒み、たかが皮膚病、されど皮膚病だった。
病気が私からあらゆる能力を奪って行く。
仕事をする能力、社会生活を維持する能力、そして家事をこなす能力さえ!。
悔しかった。
病んだ者は無能力という自己嫌悪とも闘う必要に迫られるのだ。
そんなことも、我が身となってみてはじめて知る。
この状態を受け入れ許容してくれる家族がいなかったら、とてもつらかったことだろうと思う。
病気ゆえに欠かせない家事の一つとして、瀕回のふとん干しがあった。
風呂を出てそのままふとんに入ってしまう上、長時間を臥床で過ごすので、ふとんはひどく湿った。
また特にひどい時期は、自律神経の失調を反映して、寝汗もかなりかいた。
ちょっと油断するとふとんの下面にカビが生えるまでになる。2枚の敷きぶとんを交互に使い、さらに週に1〜2回のふとん干しが欠かせなかった。
これも今までずっと母がしてくれていたのだが、私もいくらか身体を動かせるようになると、自分でふとん乾燥機をかけ、二階への行けるくらいの体調に階段となると、自分でベランダへふとんを干しに行くようにした。
過大な母の負担を、少しでも減らしていかねばならなかった。
概して病気になると、或いは病人がいると、できないことが増えるのに、しなければならない雑用はかえって増えてしまう。
何とも皮肉なことだ。
病人と周囲の人それぞれができることを分け合って、何とか生きていくしかない。
他人に頼むことも状況によっては必要になるだろうが、手続きが要る、費用が要る、厄介事は増えるで、それも楽なことではない。
いずれにしても家庭の中でどうするか決めていかなければならない。
家族とは本当に大事なものだ。
その大事な家族の一員、父が病に倒れ、入院した。
命に関わる状態で、母ひとりに任せて私は病院にも行かないという訳にはいかなくなった。
決して状態は良くはなかったが、今までのようにどうやっても駄目というほどではないかもしれない。
主治医の話を聞く日、一念発起して母とともにタクシーで行ってみたら、「火事場の馬鹿力」で、ふらつきながらも何とかなった。
それから母と交代で病院に通うようになった。
「ほらもう大丈夫だろう」と思わないでほしい。
行かなくてよい日はぐったりとなってしまい、日常的に外出できる状態にはほど遠かった。
また、「いざとなれば外出できるんだから、今まで駄目だと言っていたのは怠け病だ」という単純な見方もできればしてほしくない。
「火事場の馬鹿力」は、火事場でなければ出るものではない。
むしろ私は、人間や世の中の仕組みというものは、何とか生きていけるようにできていて、必要な時にチャンスを与えてくれるものなのではないかと思っている。
都合の良い考えだろうか。
キリスト教でも、「神は耐えられぬ程の試練はお与えにならぬ。」というではないか。
そして父は亡くなった。
命は必ず終わる時が来る。無理からぬこととはいえ、家の中が急に淋しくなったように感じられた。
しかし因果な病気を抱えた私は、その死に際して、悲しむよりも、最期の時に立ち会ったり葬儀に出ることが私は果たしてきちんとできるのかということを危ぶまなければならない状態だった。
最期の日はほとんど徹夜で、どうなることかと思ったが、常にはない力が出て、葬儀を滞りなく済ませなければならないという責任感が病気を後回しにしてくれた。
医学的に言えば、交感神経が興奮しているストレス状態だ。
副交感神経活動状態で活発になる痒みなどは、今は感じている場合ではないということになる。
それでも無限に力が出るわけではない。告別式を午後にずらしてもらって、石にかじり付く思いで、どうにか出た。
皆に先に行ってもらい、お通夜に間に合うように喪服に着替えていた時には、余りの皮膚の痛みに、いっそ行くのを止めてしまおうかとどれだけ思ったか知れない。
泣いて、耐えた。