考えたこと、そして新局面   



自転車に乗ってみて驚いた。身体を風が吹き抜けていく。
・・・こんなだっただろうか。
身体はその感触をすっかり忘れていた。
自動車の免許を取るまでは、散々乗ったはずの、自転車であったのに。


−思わず過去を振り返る。
結婚、転居に次ぐ、自分のアトピーの、想像だにしなかった大悪化。

身体中の皮膚がひりひり痛かった。一分一秒がつらかった。
脱ステロイド中のひどい状態の人が「風があたっても痛い」「家族がエアコンのスイッチを入れると自分の部屋へ逃げ込む」などと言うことがあるが、まさに私もその状態だった。

ふつふつと沸き起こり続ける痒みと鋭い痛みから自由になることのない身体には、一挙手一投足が苦行だった。
腕も上げられず膝も伸ばせず、身体を引きずる思いでしか動けない。

じっとしていることがまだしも一番の安楽だったから、不要不急の時以外に身体を動かすことなど考えられもしなかった。
今は、かさぶたが皮膚の傷を覆ってくれている時なら、身体に当たるその風を心地良いと感じることができる。

ここまで回復したことには、祝杯を挙げるべきだろう。


そうして思う。

アトピーが、これ程ひどい状態になるような病気だとは、かつて皮膚科医をしていた自分は全く知らなかった。
自分と同じアトピーの患者であっても、所詮他人事の域を出ない見方しかしていなかったのだと思う。
私は私なりに、自分の日々の生活や悩みを処理することで手一杯だった。

そうした日々が恥ずかしくもあり、それでも一方で懐かしくもある。
当時の方が、単純に幸せでいられ、精神的に楽だったことは確かだ。
しかし今は知ってしまった。もう知らなかった時に戻ることはできない。

私の心は自分がそんな医師であることを許さないだろう。
ならば私は、これからどのように生きていけばいいのだろう。
いったいどんな医師になれるというのだろう。・・・。

患者としての私の模索が、出口を見つけてきたのと入れ代わるように、医師としての、(いつかはその立場に戻るべき者としての)模索が、私の中で再び大きな課題となりつつあった。


私の知識も身体も、以前のそれとはもう違う。

今の私は、化学物質であったり天然のものであったりする、現代の私たちの生活の中の実に多様なものが、アレルギーや皮膚炎を生じさせる可能性を知っている。
私たちは、日々感作(かんさ:ある物質に接していることによってアレルギー反応を起こすようになること)される危険の中で暮らしている、と言っても過言ではないような気さえする。

それらを知っていることは、医師としてどうしても必要なことであり、それによって起きていることを冷静に判断できれば、避けるべきものを避けることができるし、何が起こっているかわからないための不安から逃れることができる。

それは有意義なこととずっと思っていたが、最近ではそうとばかりも言えないような気もしている。
アンドルー・ワイル医師が健康法のひとつとしてニュース断食を勧めてもいるように、知ってしまうことは新たなストレスを生み出す。
起きてもいない危険を予測し心配してしまったり、世を儚(はかな)んだりすることに繋がり、その人の精神の活力を損なうものにもなるということだ。

目や耳に心地良いものだけでなく悪いものも的確に知っていながら、なおかつ自分自身が心身ともに健康でい続けることは、かなり難しいことだと思う。
そんな立派な医師に、私はなれるのだろうか。


私の身体も、この悪化以来、ずいぶんと変わったと思う。

さまざまな予測外の自律神経にまつわる症状(起立性低血圧・朝起きられないこと・過敏性腸症候群・頻尿など)の発症は、アトピーが、皮膚だけの病気でも皮膚だけで済む問題でもないことを私に実感させるのに充分だった。

そしてその多くを、患者としての私自身はまだ克服できていない。
希望は決して捨ててはいないが、いまだ病悩期間中にあることもまた事実である。


また、皮膚に生じるアレルギーであるアトピーと、神経系の反応と見られている化学物質過敏症状が、私の身体の中で奇妙な同居をはじめた。

多分私は化学物質過敏症と診断される程に症状がそろってはいないと思うし、両者は、別個の概念であり病気である。
しかし私のアトピーは化学物質によって悪化したし、この悪化以来の経過の中で、線香の煙で舌がしびれたり、石油の臭いを嗅いで気持ちが悪くなるといった化学物質に対する強い反応を呈するようになった。

それに嗅覚が非常に鋭くなった。すなわち些細な臭いを感知し、それを周囲の人に告げるとその人たちは全く臭わないと言う、ということが非常にしばしば起きるようになった。
丁度化学物質過敏症患者が、自分が回避する必要のある化学物質の存在を、著しく低濃度であってもそれと察知するように。
私の知人のアトピー患者でも、脱ステロイドとともに同様に嗅覚が格段に鋭くなった人がいる。

私の娘も、アトピーはさほどでないが、既に可塑剤に対してある種の過敏性を獲得しているようである。


脱ステロイド後の一時期、アトピー患者の皮膚がさまざまな軽微な刺激に対して反応し悪化するある種の過敏状態になることも知られている。
その過敏状態は皮膚の改善とともに自然に治まっていく。
これらの今の私の化学物質に対する反応も、それと類縁の、過渡期の一時的なものなのだろうか。

しかしそれなら、アトピーがそれ程ひどくもない娘の化学物質に対する反応は、どう考えたらいいのだろう。

どうも私には、アトピーと化学物質過敏症は、その症状が出る機序において、非常に深い関連性を持っているような気がしてならない。
それがどういったものなのか、説明することはできないのではあるが。


まあその疑問は疑問として、そうした複数の症状の合併を経験して思うのは、アトピーが重症であるということは、皮膚以外の部分でもその人の身体は多分に病んでいる可能性があると思って診なければならないのではないかということだ。
かつての私はそういう認識を持って患者を診ることはなかった。

そしてそれは容易なことではない。
皮膚を専門としてきた医師は、全身の症状を扱う充分な研修の機会を得ていない。
それが果たして私に勤まるのか。
それら慢性の難治な症状に、改善の光明を見つけていくことができるのだろうか。


医師に復帰するためにはそもそもの必須の前提条件である、私自身の、アトピーとその周辺症状を含めた健康が、果たして本当に充分に回復し、その後それを維持することができるのかという懸念も、無論ぬぐい去ることはできない。

時折皮膚科の診察の仕事のお誘いを頂く。
「そろそろ少しは働ける位よくなったんじゃないか。週一回程度リハビリ代わりにどう?。」などと言われる。
しかし、「朝から起きることができない状態だ。」と話すと、大概二の句が接げなくなる。

医師という資格を与えてもらいながら、その役目を果たすことができない年月を重ね続けていることに対する心苦しさは、常に心から離れることはない。
非常に口惜しくもある。
しかし、できないものはできないのだ。どうしようもない。

何の仕事でもそうだろうが、仕事というものには責任が付いてくる。
医師ならばそれは、相手の身体を左右してしまう程の責任だ。
大変な集中力を必要とするし、しばしば自分の都合を後回しにしなければならないようにもなるだろう。
起きていられる時間でも、それだけの力は今の私にはなかった。

まだ当分私が医師に戻ることはないだろう。
元々慎重すぎる性格でもあるのかもしれない。
それでもいつか必ずそこへたどり着くことを、そして新たな闘いの日々に身を投じられることを、信じ続けて生きている。


さて、そうはいっても、身体が楽になってきた分の、余裕ができた幾らかの時間がここにある。
ではこれを何に使うべきか。

長く遅い回復の経過をたどっている脱ステロイド患者なら、きっと皆一度や二度は同じような悩みに突き当たるだろう。

状態が一番ひどい時には、ただ毎日を乗り切ることしか考えられない。

ところが、それを過ぎて、ちょっと一息つける状態になると、周りと自分の状況を改めて見渡す少しばかりの余裕が出てくる。
すると、いわゆる普通の人と比べての自分の遅れを如実に感じることになる。自分も何かしなければ、と焦る。
周囲も、いつまでも油を売っていないで、と言うかも知れない。

確かに身体が少し動くようになってきている。
身体を動かしていかなければ、改善も頭打ちかな、とも思う。
しかし体力は充分ではないし、いつまた悪化が来るかもわからない。
何かを始めたとして、自分はそれをきちんと続けていくことができるのだろうか・・・。

大概の場合、何か仕事と呼ばれるもので比較的短時間でできるものを、試してみることになるだろう。
まだ社会人ではなく学校の課程に属する身ならば、学業の全うに向けて少しでもカリキュラムを消化することに力を向けるだろう。

専業主婦ならばこうした焦りは感じにくいかも知れない。
それでも、家族、特に夫の信頼と愛情を維持し続けていくために自分はもっと何をするべきかという悩みは持つだろう。

貯金を取り崩したり生活の糧を家族の他のメンバーに頼ったりしての療養生活から、再び自立へ戻る道を探ることになる。
自分の体力を測るためにとにかく何でも挑戦してみることが自信や力になるだろうし、少しでも働き収入を得ることができれば心も軽くなるだろう。

できることなら、先々の自分を想定して社会復帰の道が探れたら、いいかも知れない。
そこそこの状態まで改善した後、自分はどのように身を立てていきたいだろうか。
それを考えてみれば、今できることで将来の自分の力となりうるようなことも、或いはどこかに見つけられるかも知れない。


家庭を維持し、子供を育てることの他に、私はその時間を勉強に使うことにした。
幸いにして再び医師になれたなら、その時に役に立つ知識や技能がもっと欲しかった。

人体の構造をもう一度振り返ってみたかった。
いまなら医学生の時より深い理解ができるだろう。
そして、叶うことなら、アトピーとよりよく戦うための手段がもっと欲しかった。
今のままでは脱ステロイドの闘いは分が悪すぎる。

今までにない新しく画期的なものを発明したり発見したりすることは滅多な人間にできることではない。
特効薬を見つける夢に踊らされるのは馬鹿げたことと思う。
そんなものではなく、もっと現実的な、工夫の余地がどこかにあるのではないか・・。

私には、代替療法が気になって仕方がなかった。
東洋医学・ホメオパシー・カイロプラクティック・オステオパシー・さまざまな心理療法・・・。
それらはみな、昨日今日始まったものではなく、理論はともかく、一定の治療効果を現実にあげてきたゆえに廃れることなく受け継がれ、その間改善を加えられ続けてきたものだと思う。

信じるに足るものがあるとしたら、この閉塞状態を何かしら和らげることができる既存のものがこの世にあるとしたら、それは、そうした伝統医療の中にあるのではないだろうか。
それらを、もっと突っ込んで学んでみたかった。


その冬はまだつらさが勝っていた。写真に移る顔は、どうしても不幸に歪んでいた。
しかし探せば何かしら手はあるものだ。代替療法のあるものを学べる通信教育を見つけた。

通信教育はインターネットと同じように、容易に外出の出来ない病者にとって、非常に有効な手段だと思う。
自宅にいながらにして学べるだけでなく、そのペースも自分の体調や都合に合わせて自由に変えることができる。
学ぶことなら、たとえ予定通りに進まなくても、誰に迷惑をかける訳でもない。

何をして働くにしても、始めから一人前にはなれない。
今は本格的なトレーニングには入れなくても、基礎知識を付けることは通信教育でも可能だ。
それなら有意義ではないか。
もちろん学費が払えるという前提があってのことではあるが。


さて、私の身体の状態の経過に話を戻すとする。

春を迎える頃には、身体を動かすのも、つらくて仕方がないということはあまりなくなってきた。
膝も、完全に伸ばして歩いたり立ったりが無理なくできるようになってきて、皮膚の突っ張り感はひどくなくなってきた。

赤みも以前より枯れる傾向で、薄くなったり茶色くなったりしてきていて(無論不定期な赤みの増強はあったが)、入浴して皮膚が濡れた時の、気持ちの悪い赤紫色も、大分勢いを失っていた。
部分的には肌色になっている所もある。
「紅皮症って、治るんだあ・・!」驚きと喜びに嘆息しながら、生きてその時を迎えられた感慨に浸った。

皮膚の厚みは減少しつつあり、もう厚みはないと思われる部分も多々あった。
きめは本当に少しずつだが、確実に細かくなる方向に向かっていた。
きめが荒く厚みの強い部分はまだことさら痒みが強い。
すなわち慢性湿疹の病状が盛んな所である。
しかしそんな場所であっても、以前の状態とひき比べれば、ごく緩やかな消退傾向は明らかだった。

治ってくる時は、病変との境目を圧して健常皮膚が拡がり、漸次病変と置き換わって健常部の割合をひろげていくのかなあ、と何となく想像していたのだが、どうやらそうではないようだ。
私の身体を取り巻く皮膚の全体が、一様に、ゆっくり治癒に向かっている。
その営みは愛おしかった。

まだ白く粉を吹いたざらざらの状態ではあった。
しかしその剥がれ落ちる粉は、段々小さくなってきていた。
そして、自覚的なかさつき感はかなりやわらぎ、毎日入浴後につけていた保湿剤の必要性が感じられなくなった。
とうとうその春の終わりに保湿剤を止め、そして何の悪化もなかった。


このように書くと、またきっと「なんだ治ったんじゃないか、だったらいつまでうだうだしている、早く働けよ。」とお思いになる方がいらっしゃることと思うので、追加しておくべきだろう。

当然これは私のかつての状態と比べての、良い変化である。
いまだ一見して異常と分かる肌の様子であることに違いはなかった。

やはりある程度状態が快くなってくると、むしろ逆に自分が健常な人と違っていることを、強く意識しなければならなくなるようである。
「普通」の生活へのハードルは、いつかは越えられそうに低くなってきたようでもあり、一方それでも頑として存在し続ける、永遠に越えられない壁のようでもあった。


実際外観はかなり改善したが、痒みはまだまだ手強かった。
一日に何度も、腕などに痒みの波が押し寄せ、痒がることだけに時を過ごすしかない20〜30分があった。

午後から夜にかけては、痒みを忘れて何かに集中できる時間も持てたし、そんな時はもう少し何かできるんじゃないかと思ったりもした。
しかしベッドに入るくらいの時間になると、必ずひたひたと痒みの波が押し寄せてきた。

ふとんに身を隠すと、あとは全身を掻きまくるしかない。
おさまるまでには1時間から2時間を要した。
そして眠りに着く。
その後は1.5〜3時間ごとに痒みで目が覚め、またしばらく掻きまくる。

痒い所はしばしば半米粒大から爪甲大くらいまでの大きさの盛り上がりを示した。
それらの盛り上がりはみな朝目覚めた時には退いて跡形なくなっているので、既存の皮膚科の概念でいうと「蕁麻疹」ということになるのだろうか。
しかしこの状態を「アトピーに蕁麻疹が合併した」という言い方で表現するのは、私にはあまり妥当には思えなかった。

この盛り上がりはアトピーの湿疹の趨勢に応じて出ており、表皮で主に起きる湿疹(アトピー)の炎症が、蕁麻疹のように(表皮の下の)真皮にも多く波及してこのような発疹になるのではないかと思った。

(まあどちらにせよ病名による分類はそもそもただ便宜のためのものだ。一人の人間の身体の中で起きていることはさまざまに有機的に結び付いている。)


痒みはしばらく掻いていると治まってくる。
何故かは知らない。
別に俗に言われているように、掻けば掻く程痒くなるというようなことはない

以前痒みが非常に強かった頃は、痒み止め(抗ヒスタミン剤)を飲んで抑えないことには気も身体も狂いそうだった時もあったが、今ではそこまでになることは滅多にない。
可及的に傷つけない程度の力加減を考えながら、痒い所は掻くことが最も合理的に痒みを解消してくれる手段だった。

無論全く傷つけずにいられはしない。
しかしアトピーの痒みはそれ程強い。
なでさするくらいではむしろ苛立ちが強くなるばかり。
つねってもまだその手を離した途端に痒みが戻る。

小さいぶつぶつ(丘疹)や表面に小さく水を持つぶつぶつ(漿液性丘疹)は、頂点を掻き潰してしまうのが、一番早く痒みが取れる。
(ただし傷からの感染には注意。手はきれいにしておきましょうね。)
殆ど治りかけのかさぶたの所の痒みも、剥がすとしばしば楽になる。


・・なぁんて書くときっと非難ごうごうなのだろう。

でも、私は「掻き壊さないように我慢しなけりゃ駄目です。でないと治りませんよ。」などという非情な命令で患者を苦しめようとはさらさら思わないし、それがアトピー治療において必要や重要なこととも思っていない。

他人の注意を引きたいなどの目的で密かに自分で自分の身を傷付ける、自傷性疾患と呼ばれるもの(ミュンヒハウゼン症候群・抜毛症など)がある。

アトピーに対してそれらと同類のものと考えてでもいるかのような言い方を時折目にすることがあるのだが、そうした考えには私は非常に抵抗感を感じる。

(尤も自傷性疾患であってもただ「傷つけるな」と命令するだけでは治らず、その元にある患者の精神面の問題をほどくことが必要であろうが。)


例えばアトピー患者がストレスに直面して掻いているように見えても、それはストレス−>痒み−>掻くという、あくまでも痒みを介した行動と捉えるべきではないかと思う。

そしてその、ストレスが痒みに繋がっていく機序の部分が患者の中で改善されなければ、結局患者は治らないのだ。

病気はみな、広い意味で何らかの異常を告げる身体からのメッセージと考えることもできる。

掻くことを止めようと決心して治したという患者は、皮膚を傷つけなくなったからアトピーが治ったのではなく、そのことによって、自分の中でのストレス(かそれ以外の何かの問題点)が痒みに繋がっていく機序を、その回路の中のどこかの点で断ち切り、克服することに成功したのだと思う。


物凄い痒みに耐えて闘っている者に、掻くことさえ許さないのはあまりに酷だ。
痒みが減ってくれば自然に必要がなくなり掻かずにいられるようになる。

患者は、自分の中に、我慢できそうとか、掻かない工夫をしてみようという気持ちが出てきたなら、そうしてみればいいと思う。それは多分その人の中の問題点が解消されつつあるサインなのだと思う。

表面だけを整えて事足れりとしようする医師の言葉に、いちいち傷付く必要はない。
困難を受け止め切れない家族など周囲の言葉に、自分を卑下する必要もない。
ただ許して、聞き流せばいい。


さて、朝起きる時にはぶつぶつは退いているが、一晩中炎症と闘った皮膚はやはりぼろぼろだった。
身体中がひりひり痛痒い。相変わらず朝食の支度を急いで済ませて風呂場に直行する日々だった。

入浴の後はベッドに倒れて痒がり、落ち着いた後寝たまま朝食を取り、その後も起きようともするが痛かったり痒かったりで身体が自分のものにならない。
結局つらさを忘れるため、昼寝で意識を失うことにするほかなかった。
昼寝から目覚めるとすぐ、また痒みやほてりの波が来る。
治まってベッドから起き出すと、かさぶたが渇き切らない皮膚の痛み。

一日の内私が機能している時間は午後から寝るまでだけ、という生活からは依然として抜け出すことができなかった。


ひとつ娘の経過を書いておこう。

「私の自然食」という本に触発されて、煮炊きすると失われてしまう野菜の栄養素を多く採れるのもいいかも、と、ジューサーを買って野菜ジュース作りを試みてみた。

いろいろ入れたいのと飲める味とで落ち着いたのは、ほうれんそう1束・りんご1個・レモン1個・キャベツ1/3個・にんじん1〜1.5本というレシピ。娘には飲みやすいように蜂蜜を少し、私のには時にセロリも入れた。

初夏から始め週2回飲むペースで続けて2〜3カ月、その夏は始めて娘の一番ひどかった首から鎖骨部にかけてのアトピーの発疹が、素人目には分からない程にきれいになった。
いつも痛くて風呂の湯にもつけられず泣いていたのが、無理なくつけっぱなしにできるようになったのは、本人も驚きで大変嬉しいようだった。

野菜ジュースのためだけとは思わない。しかしどちらにしても、野菜をしっかり採ることがアトピーの身体にいいだろうことは、否定する人もいないだろう。

野菜の料理をきちんと採り続けることも、グルメな肉中心の加工食が溢れる今の日本ではなかなか容易でないことでもあるから、そんな中でこれも一法なのだろうな、と思った。

乾燥する季節を迎えるにつれて、娘の首から鎖骨部の発疹はまたぶり返したが、前年までの様子ほどにはならず、その後も季節的変動は繰り返しながら年々よくなっている。

野菜ジュース作りの方は、暖かくできないので冬には向かないこと、蜂蜜を入れても娘が飲むのをあまり好まなかったこと、大量の野菜の絞り屑が勿体無く思われたこと、その野菜屑を取り除きつつジューサーを洗うのが結構手間で手が荒れたこと、などのためにそのうちやめてしまった。
しかし今でもたまに、野菜不足になっているかなという気のする時に思い付いて作ったりする。

一方で既製品の野菜ジュースをしばしば飲むことは習慣になった。
こちらは娘も味に不満はないようだ。
伊藤園の充実野菜が我が家の定番である。

・・悪化から、9年が経過。








次章:早起きへの挑戦 へ
前章:いろいろな所へ へ

トップページへ