アトピー患者の生き方   




いつのまにか、普通に暮らしていた。

ステロイド/タクロリムス(プロトピック)ら免疫抑制消炎剤も、いかなる内服薬も、増してや注射などの新薬も使わないまま。
ただ、仕事のかたわら家事もする女性として、手や指の保護剤だけは欠かせない。
いろいろな物に触れ、洗い流すことをくり返さざるを得ない手は、アトピー体質がある分、確実に普通の人より荒れやすく、痒みにもつながりやすい。
手指の痒みやかさつきには、しょっちゅう白色ワセリンを塗っている。
これは市販品でなく処方薬としているが、特段、刺激の少ない(より精製度が高く粒子が細かい)プロペトにするようなことはなく事足りている。
手指以外のかさついたところや掻き傷にも、たまに塗布することがある。ごくたまに。

顔には何も使わない。
化粧をせず、基礎化粧品すら補わずとも、いられるものと知った。
石けんとシャンプーは相変わらず、椿油のアトピコ。
猫の目のようにくるくると新製品が出ては消える中、置いてある店を足で探し回らなくても、ネット検索にて購入可能な、便利な世の中となった。
パラベン(防腐剤)が入っていようと、肌にトラブルは生じない。
防腐剤はヘパリン類似物質製剤(ヒルドイド)にも入っている。

体は毎日洗わないようにした。冬期はさらに頻度を落とす。
11月からの初冬にはやっぱり、朝入浴した日の夜就寝時に乾燥感を感じ、痒みが出る。
肌のきめの荒さが目立つのは肘の周辺のみだが、冬場はあちこち白く粉を吹く。
掻けば粉が落ちるが、掻きたいと思うことも少ないため、あるがままでいる。

なんとなく掻く、ことはない。
痒みの起き始めや軽い痒みのとき、その掻き行動の動機もわからぬまま掻き始める患者は、聞かれたら「なんとなく」としか答えられないかもしれない。
だって痒みはできるだけ意識しないでおきたい、生活の質を落とす、負の感情だから。
掻き壊しが皮膚を傷める可能性を考えても、掻かずに忘れていられるならそれに越したことはないはずだ。
しかし意識するとしないとに関わらずその痒みは、アレルゲンやその他の刺激により、確かに皮膚の免疫炎症が水面下で起きたゆえに生じた知覚ではないか。
それが、アトピー性皮膚炎という病気である。
その炎症が軽く、すばやく大過なく治(おさま)ってしまうにしても、
明瞭な皮疹となって表出し、遷延していくにしても、
その皮膚の中で起きている免疫病理を見通すのが、皮膚科医の役割であろう。

実際、アトピー患者には、アロネーシス(alloknesis)やハイパーネーシス(hyperknesis)という知覚過敏症状がある。
前者は、通常は痒みと感じないような刺激で、痒みが誘発される、
後者は、通常は弱い痒みしか感じないような刺激で、強い痒みを感じる、というもの。
正常なら痒みとならない刺激でも、痒みとして知覚する。
神経に対するより少ない刺激により、痒みを感じる。
これらは、神経回路の異常という病理の存在を物語る実験的科学的事実だ。
患者皮膚の神経が真皮にとどまらず、本来ありえない表皮内まで多数伸びていることが見出されてから、かれこれ20年余。
この神経伸長は痒み疾患を語る際の常識となり、こうしてその他の神経異常も続々と解明されている。

今でも私はあちこちに掻き傷をよく作るが、それらは3日とかからず回復していく。
尻だけアトピーは反復するものの、ボコボコ膨らむ数、頻度ともに減ってきた。
褒められたことではないが、膨らんで痒いときは臆せず掻く。
長いことアトピー患者をしていると、掻き加減の調節も上手くなるものである。
損傷を長引かせずに、なおかつ今の痒みを、より早く終わらせる程度に。
痒みに囚われる時間を、より少なく制御するすべを身につけていく。
爪の隙間に残る戦いの痕の皮膚片が、いつのまにか如実に少なくなっている。

深く刻まれた皮膚の皺、治るわけないと思ったほどのそれらが、経過とともに少しずつ浅くなり癒えていく。
慢性湿疹の苔癬化でゾウのように分厚く波打っていた手首や膝頭が、今では正常にしか見えない。
母に汚いと評された首(身内なればこそ、ありていに言ってくれる)、出すのをはばかられたデコルテ部が、今ではつややかに肌色だ。
鏡を見たとき、いちいち驚き見惚(みと)れるほど、皺すら少ない。
人間の体の回復力とは、本当にすごい。
私はずっと首を隠して生きていくのだと思っていたのに。
今に、肘周りすら正常になるのかもしれない。

おかげで、ありがたいことに、有効な活動のできる時間が増えた。
苦痛に耐えつつではなく、一意専心に仕事ができるということが、これほど楽とは。
最近は、余暇でも、さらなる仕事の下調べなどに振り向けられる時間が増えた。
折しも、あらゆる知識が、いながらにしてネット経由でアクセスできる時代である。
グーグル先生にはとてもお世話になっている。

調べものをしていると、先ほど書いた神経回路に加え、免疫機構の詳細が克明にわかってきていることに、隔世(かくせい)の感を禁じ得ない。
表皮角化細胞や真皮の場で、リンパ節から皮膚に至った各種リンパ球が、インターロイキンなどのサイトカインを介し、相互に刺激し合う。
その中で、好酸球が増え、IgE抗体が作られ、肥満細胞も活性化する。
それらすべての結果として、顕著な痒みと炎症が出現するのみならず、皮膚のバリア機能や細菌バランスまでが影響される。
デュピルマブは、この一連の反応連鎖の中でキーポイントとなる、インターロイキン4(IL-4)及び13(IL-13)を阻害するように働き、そして実際に顕著な効果を見せている。

これは、医学の勝利なのか、どうなのか。
私のアトピーが激悪化した30年近く前にこの薬があったら、私はどうしていただろう。
あるいは、その後数年、深みにはまっていくばかりの頃に売り出されたとしたら。
おそらく、「それを使って治しなさい」と周囲から盛んに言われはしただろう。
勧めに従い、高額療養費制度のお世話になりつつ、デュピルマブを定期的に自己注射するようになっていたのだろうか。
そんな自分は、どうにも想像できない。
まあ、その前提条件の外用ステロイドも保湿剤も使っていないのだから、「打ってください」と言ってもはじかれただけかもしれないが。

高度な薬には、高度な副作用の懸念が付きまとう。
即座の治癒をもたらしてくれる絶大なる恩恵でも、その裏でデスノートの死神の眼さながら、寿命を半分に縮めるような災厄が口を開けているかもしれない。
医学の光だけなく影にも否応なく直面する、医師という立場にある自分は、強力な薬に頼らざるを得ず、でも他の選択肢は皆無と思えなかったとしたら、そんな自分に激しく懊悩(おうのう)していただろう。
よちよち歩きの皮膚科医1年生の頃、先輩医師の教え通りに処方したステロイドの効果と限界に慄(おのの)いたときから、すべては始まっていた。
医師としては異端の道に進んだこの生き方に、何らの後悔もない。
私は今、幸せだ。

患者の方々にも、それぞれの自分の選択をして、悔いなき人生を歩んでほしいと思う。
どうするのが、自分にとっての幸せなのか。
その答えは自分の中にしかない。
自然な自分と暮らし、そして、
来年もまた、皆様との良きご縁を願って。


2020.12.





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