冬場も外出できるようになったのは4年振りで、感慨深かった。
近所に大型マンションが完成しモデルルームを公開していたので、後学のためにと母・叔母と一緒に見に行った。
結婚時代住んでいたのと同じ大手集合住宅販売会社の商品で、似た構造は懐かしくもあった。
しかしドアを開けた途端、私を迎えたのは鼻を付くような強い化学物質臭だった。
結婚時代のマンションにはじめて不動産業者に案内されて入ったあの時と同じ、ニスのような匂いだ。
どの部屋に入っても、綺麗に整った外観とは裏腹にその匂いが充満していた。
例によって母と叔母には気にとめる程の匂いではないらしい。
試しに案内者に化学物質への認識を問う質問を2、3してみたが、知識も問題意識も乏しいと見てとれた。
窓は少なく、当然風呂場にはない。
建築に携わった業者が同じではないかも知れないが、マンションの建築様式はあの頃と大きく変わってはいないようだった。
この高温多湿の日本で、いつまでこうしたマンションを建て続けるつもりなのだろう。
化学物質・ダニ・カビ。
過敏に反応して危険性を身を持って訴えている患者を、例外や因果関係不明として片付けるのではなく、我が身にも起こりうる問題と捕らえるべきなのだが、それは企業の効率性や利潤の追求とはしばしば相反する。
改善には長い時間がかかるだろう。
今そのマンションもかなりの部屋が埋まっている。
夜部屋に灯る多くの明りを見る度、他人事ながら心配になる。
あの中でまた新しく苦しむ人が出てはいないだろうか、と。
さて、体調改善をみてそろそろ可能かと、一念発起して市外までの外出を計画した。
どこにも行けない口惜しさから、やっと解放されるだろうか。
記念すべきはじめての東京行きは学会だった。
車を運転して都内まで、片道1時間半ほどのドライブだ。
今までは本を買って読むことしかできなかった。
仕事を再開できる日に備えて学会の聴講に行くこともやっとできるようになったのだ。
それは、寒い日だった。
肌はつっぱって少しつらかったが、座ったままで時間も長くはなく、慣れ親しんだ場の懐かしさと高揚感が勝って、さほど疲れもしなかった。
ただ、まわり中を皮膚科医に囲まれて座る中で、かつては感じることのなかった落胆と虚無もまた感じていた。
「−これ程沢山の皮膚科の医師がいるのに、私が、我が身のアトピー性皮膚炎の治療を委ねたい医師は、ひとりもいないのだ−。」
それは言っても詮無い、けれど私の心の深くに確かに巣食ってしまった絶望の感情だった。
医師とは一体何なのだろう。
手持ちの治療法の範囲で見事に患者を治せる場合はいいが、そんな病気は実はそれ程多くはないのだ。
治せない病気に向かい合った時、医師には何ができるのか、何をすべきなのか、患者の前に存在する意味さえ果たしてあるのだろうか−。
帰り道で、雪が降った。
運転に困る程は降らないと天気予報で聞いていたので、その眺めを純粋に楽しむことができた。
うっすらと雪化粧した道路脇の木々や地面は、美しかった。
仕事にも行けず家事もできず独立した生活を維持できなくなり実家で全て両親の世話のもとに生きるようになって5年、今ようやく大人として自分のすべきことしたいことをするための足がかりをつかんだのだ。
美しい雪はその祝祭の夜にふさわしかった。
翌月には、闘病の中貴重な他人との交流の場だったインターネットで知り合い、気持ちを分かち合って来た同病の友人とも、はじめて現実に会うことができた。
とはいえ冬の乾燥が治まった訳ではなく、一日中突き刺されるようなピリピリ感がそこここに続いた。
一段階よくなったという開放感とともに、まだ余りに先が長くてどうなってしまうのだろうという閉塞感も一方で感じていた。
冬の終わりに急に気温が上がると、夜明けまで痒くて眠れず、久し振りに抗ヒスタミン剤を飲むということも2回ほどあり、コントロールできない身体の揺れを持て余すこともやはり日常だったのだ。
冬の終わりにカイロプラクティック(とオステオパシー)のクリニックを訪れた。
唐突だが、辿り着ける位の体調になったら是非行ってみたいと以前から思っていた所だった。
そもそもはパソコンを手に入れた頃、ネットサーフィンで「カイロプラクティックに通っていたら治ってしまった」というアトピー性皮膚炎患者のサイトを見て、興味を持ちはじめた。
その後各種の代替療法について本やネットで学ぶ中で、挑戦する価値を感じる治療であった。
治療を受け終えて、帰る前に食事をしていこうとレストランの席に座った時、不思議なことに気付いた。
いつもの手の甲の赤みが薄らいで、ほぼ肌色になっていた。
そういえばいつも離れない皮膚のピリピリ感が、今は余り感じられなかった。
身体が何だか軽かった。
これは一体なんなのだろう。
家に帰り母に話した。
日本では海のものとも山のものとも知れぬ治療に反対も当然予測したが、「同じことをしていても仕方ないんだから、続けてみなさい。」と母は賛成してくれた。
捕われない見方の家族を持ったことに感謝した。
それ以後、娘も共に月一回弱くらいのペースで通院を続け、現在に至っている。
これも不思議と言っては失礼なのだろうが、娘も、治療に行くと症状が楽になることを実感として感じるらしい。
たわ言と馬鹿にされるのもご自由だが、私と娘のその後の症状の改善に、このカイロプラクティックの治療は大きく貢献していると私は思っている。
この最初の通院の日に指摘された面白いことに、「甘いもの好き」があった。
確かに私は子供のころから甘党で、食事をきちんとしなくてもお菓子は食べるような子だった。
療養生活が長引いてからは、無聊と鬱憤で食べる量も増えがちで、この頃は、食後すぐチョコレートの詰ったクッキーを食べたくなったり、お汁粉一杯では満足できなかったり、自分でもおかしい、このままではまずいと思っていたところだったのだ。
精製した白砂糖のお菓子や飲み物は加速度が付く。口にし慣れるほど、より多く濃厚な甘い味が欲しくなり、量と頻度が増えていく。
砂糖は化膿性疾患を悪化させ、腸内にカンジダなどのカビを増やし腸内細菌叢を乱しアレルギー症状を悪化させることはつとに言われている。
また安保徹氏によれば甘いものの過食は、アレルギーに繋がる顆粒球が少なくリンパ球の多い体質を促進するという。
まさに医者の不養生で面目もない次第だが、嗜好を変えるのはなかなか難しいものだ。
それは親の嗜好を含む生活環境の中で小さい頃から築かれており、酒・煙草・コーヒーなど他の嗜好品を採らない私には、それだけが楽しみの種でもあった。
一念発起してこの時以来、甘いお菓子を我慢することを試みた。
おやつは焼芋、おせんべいなどに。
そして完全には断てなかったが、無節操に食べ続けた時期と比べたら、食べ、飲む量は随分減った。
食べないようにしていると、「甘過ぎてもう食べたくない」という感覚が出てくる。
人間の身体とは面白い。実によくできている。
避けようと心掛けると、現在の日本の食環境がいかに甘いものに満たされているかということに驚嘆せざるをえない。
デパートやレストランは濃厚な甘い味覚の氾濫。
さらに困ることには、自分で買わないように努力していても、頂き物をしてしまう。子供だったら、友達が持っている。
「甘いものを控えている」と云っておいてさえ、「少しくらいならいいでしょう」と頂いてしまう。
食べ物を捨てるのは良くないと思うし、自分が「身体に悪いから」と食べないものを人にあげるのも筋が通らない。
致命的な症状が出る食物アレルギーなら何をおいても断るが、それ程でもなければ子供の人付き合いへの配慮も絡んでかたくなに断ることも難しい。
食べたくても甘い物などほとんど手に入らなかった50年くらい前までに比べて、今の日本人は豊かさゆえの異常の中を切り抜けて生きていかなければならないと言っていい。
糖尿病の急激な増加は当然である。
脂肪、肉類、乳製品などの摂取の増加についても同様の病理があるだろう。
糖尿病といえば、「精製した」白砂糖という点にもポイントがあるということを「僕が肉を食べないわけ」という本を読んで認識した。
(図書館で借りた旧い版で、残念ながら新版では、狂牛病の話題におされてこの項は割愛されてしまったようである。角田和彦医師の著作の砂糖の項に類似の既述を見ることができる)
精製とは、加工してそれ以外の成分を一切除き、純粋なひとつの化合物とすることである。
その砂糖は、そうでないものに比べて急速に吸収され血糖値の上昇を招く。
その急な上昇はまたそれを制御しようとする生体の反応により、急激な血糖値の低下を招く。
血糖のコントロールが困難になったり、脳の活動が不安定になったりする。
脳の唯一のエネルギー源はブドウ糖であるが、それは穀物のデンプンから体内で作ることができるもので、その場合はゆっくり吸収されこうした問題は起きないのだ。
この本では、自然のままのものを完全食物、精製したものを不完全食物と呼んでいた。
食塩・米など、他の食物にもこうした問題はある。
精製したものはまたミネラル・ビタミンなどの身体に有益な多くの栄養素を失っている。
技術が発達した現在では、商品としての効率を追求した加工品を口にする機会が多くなった。
これもまた現代の病理である。
そんなふうに頭では偉そうなことを考えるが、実際今でも私は甘いお菓子を断ってはいない。
それができればこのアトピーはずっと軽くなるのだろうか。
ただの意志の弱い愚か者なのかもしれない。
それでもなるべく量を少なく抑える努力は日々している。
さて、経過に話を戻すが、約1年かけて、春に新居は完成した。
測定してもらったホルムアルデヒド濃度も問題なく、入って臭気など不快を感じることもなかった。
病人ばかりの家族での引っ越しは大変だった。
家具とまず必要なものを移動し、後は後日少しずつ残りを移動して、済んだら旧宅を解体するという贅沢なスケジュールだったが、それでも引越し屋と自分だけでこなさなければならない。
午後1時過ぎから始めた作業だったが、夜には私はふらふらになっていた。
見かねた母が、病身を押して夕食を作ってくれた。
口では言わなかったが、母は新宅に住む日を心待ちにして命を繋いでいたようである。
幸い住み心地は快適で、母と私と娘で静かな時を過ごした。
それから間もなく、母は帰らぬ人となった。
お葬式は前の時よりは楽だったが、やはり薄氷を踏む思いではあった。
告別式は午前中からと言い張る業者を圧して、無理矢理午後からにしてもらった。
叔母がずっといて、何くれと手伝ってくれたことが本当に助けとなった。
服喪中長時間つけ放しにしておける太いろうそくを葬儀業者がつけて置いていったが、その香料の匂いが私には甚だしく、とうとう耐え切れずに消してしまった。
様々な色を付けた線香の煙りの匂いも、かなり不快だった。
ラベンダーの香りなどと書いてあったが、何がラベンダーなものか、とても人工的な香りだ。
あらゆるところに化学物質が、人工の偽物が普及している。