ある試験を受けている。 カイロプラクティックを勉強中の認定試験以来だから、 なんとも久し振りの受験イベント。 運動はからきし駄目な私だが、学問は得手(えて)という自負がそれなりにある。 すぐに受かるかと高をくくっていたが、現実はそう甘くなかった。 あえなく3度の不合格を重ね、4回目の再挑戦に向け精励する。 試験勉強は、大変だ。 もう一生しないと思っていたそれをし、改めて感じる。 世の中には自分の知らないことが、まだまだ山のようにある。 そう思い知らされる。
一文進むごとにその意味がわからず、調べなければならない。 つい理解しないまま丸暗記、という安直な方向に流れたくなったりもする。 しかし丸暗記はそう大量にはできないし、すぐに抜けていく。 学生時代、全教科いっせいに行われる定期試験をしのぐには、 よくそんなこともしたけれど。 学びは自分のためだ。 日々の生活の中で、仕事やプライベートの中で、 ついつい知らないまま、うろ覚えのまま過ごしていることはよくある。 その穴を埋めたいということが、今回の受験の動機である。 試験期日の縛りが、学ぶことを余儀なくしてくれるし、 達成した暁(あかつき)には、合格という果実も手に入る。 人とは、鍛えるにつけ輝く、鋼(はがね)のようなものだと思う。 学業も仕事も生活も、日々の暮らしは苦労が絶えないけれど、 うんざりするようなその不遇のくり返しこそが、人を育てる。 わからないことを1つ1つ調べる。 その作業は、地味で根気を要する、気が遠くなりそうなほどに。 けれどその末に、腑(ふ)に落ちる内容にたどり着いたとき、 「そうか!」とばかり、気持ちが高揚する。 苦渋の中の悦楽。 当日になるとこれまた、非常な緊張感が走る。 過敏性腸症候群持ちの私は、ほぼ必発でお腹を壊す。 受験に耐えられる体調にもっていくのが、楽ではない。 それでも試験が開始されれば、身が引き締まる。 この限られた時間を最大限に使い、 自分の実力を、的確にこの解答用紙に写し取らなければならない。 時間配分を考えつつ取り掛かり、 時にちらりと時計を確認しながら進めていく。 今、目の前の一問に弾(はじ)かれるように反応し、 すぐさま一対一対応する答えを、書き込む自分がいる。 わからない問題にしばし立ち止まり、頭の中の在庫を探りつつ、考える。 これでよしとするか、 再検討の要有りとチェックを入れておくか、 後で考えることにしてひとまず通過するか。・・・ そうして一通り済ませたら、検討課題に戻り、 さらに他の問題も含めて、確認をくり返していく。 そんな折々の自分をまた、全体に俯瞰(ふかん)している自分がいる。 自信ある解答ができた問題が、どれくらい多く、 逆にわからなかったり怪しかったりしたのが、どれほどあったか。 出来栄えは、試験中に自分が体感できる。 それが独りよがりでないかどうかを知らされる、 客観的な結果が出るのがまた、試験の良いところだ。 実際、3回とも足りなかった点数は少しだったので、 自己採点までは、ひいき目に合格を期待してしまった。 自分で勉強しているだけだったら、 こんなふうに不十分な到達度を知ることもなく、 できた気になって、慢心してしまうのだろう。
たまたま苦手なところが出た不運のせいさと未練をかこちながら、 精一杯頭をひねっても太刀打ちができず、 解答を知って「やられた! それは知らなかった」と思う。 逆に、合っている気で書いた答えが違っていて、 「そうだったの? 思い違いをしていた」と気付くこともある。 その衝撃は口惜しくもあり、嬉しくもあり。 試験の緊張感があればこそ、 正解がより深く頭に刻まれる。 良質な問題に出会えることは、実に楽しい。 見落としがちな要点を突く出題に、思わず唸(うな)らされる。 その学問分野の楽しさを、出題者たちと共有するひととき。 鮮やかな問題には、もっと受けたいとさえ思う。 人は何のために試験を受けるのだろう? 自分の到達度の高さを示し、何かを獲得するため。 人はそうして、つねに、より高みを目指す。 そんな私の挑戦は、4度目の正直となった。 よかった〜、 永遠に受からないかと思った(笑)。
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