少し前、掲示板でこういうことを書いた。
>私は、全経過に渡って、大してステロイドは使っていないんですよね、よく誤解されているようですが。
ステロイド離脱のために苦しんだ、ということもないです。
ただアトピーが悪化した時に、ステロイドで抑えることをしないで、そのままひどくしちゃった患者です。(No.263より)
「脱ステロイド(脱ステ)」という言葉がある。
アトピー性皮膚炎患者が、ステロイドの使用を止めることに対して、使われる。
私は自分を脱ステ患者だとは思っていないし、このサイトが脱ステサイトだとも思っていない。
私がずっと闘ってきて、そして今も闘っている相手は、ステロイドではない。
アトピー性皮膚炎である。
(ここで補足を挟ませてもらう。
タクロリムス製剤(プロトピック)という新しい免疫抑制剤が出てしばらく経ってからは、この薬も同様のものと捉えられ、脱ステロイドという言葉が語られる場合は、脱プロトピックの意味をも含んでいることが多い。
この文章でも同様に考えてほしい。煩雑(はんざつ)な繰り返しを避けるためにステロイドという言葉で代表させるが、同様に免疫抑制剤として働くプロトピックのことも含んでいると考えて頂いていい。)
さて、日本人は、世界に冠たる薬大好き民族であり、薬を購入するに充分な経済力を持った国の民でもある。医師と言えば西洋医学の医師であるから、その薬のほとんどは西洋医学の薬である。
病気になれば即、これら西洋薬を浴びるほど与えられてしまうのが日本人だ。
だから、ステロイドの洗礼を受けていないアトピー性皮膚炎患者は例外的というのが日本での現実となる。
とすれば、「ステロイドなしでアトピー性皮膚炎を治していこう」という試みは、まず第一に、今まで使っていたステロイドを止めるところからスタートしなければならない。
それがすなわち脱ステロイドである。
しかし時は流れて、今では、「アトピー性皮膚炎」も「ステロイド」も有名になった。
「アトピー性皮膚炎」と診断される当初から(或いは診断される前からさえ)、ステロイドを使いたくないという意志を持つ患者も現れるようになった。
すると幾らか事情が変わってくる。
「ステロイドなしでアトピー性皮膚炎を治していこう」という試みは、『ステロイドを止める』ことではなく、『始めから使わない』ことともなりうる。
この止めるも始めから使わないも両方含めて、適切な用語がないので、同じように「脱ステロイド」と言っているのが現状であると思う。
(一部では、「ステロイドに頼らないアトピー治療」と言ったりもしている。この表現は適切にその意味する所を伝えるものであるのだが、いかんせん長過ぎて、日常的に使うには不便に過ぎる。)
以下便宜(べんぎ)的に、『ステロイドを止める』ことを「除ステ」、『始めから使わない』ことを「無ステ」、ステロイドを使わない状態でいることを「非ステ」、使っていたことを「既ステ」、その総使用量が少ないことを「少ステ」、多いことを「多ステ」と表させて頂くことにしよう。
患者としての私は、「無ステ」でなく「既ステ」ではあったが、「多ステ」ではなく「少ステ」であった。
(「多ステ」と「少ステ」の間の境界はどこかという疑問は保留にしておいてほしい。誰も答えを出せない問題であり、ここではあくまでも便宜上の分類である。)
私が当時使っていたステロイドは、最強のデルモベート軟膏の1890分の1の抗炎症作用しか有さないとされているものだった。
だから私の激しい悪化は、少なくともその大部分は、「除ステ」のために生じたものではない。アトピー性皮膚炎自体の悪化であった。
このサイトの開設当初、私のことを「皮膚科医がステロイドの使い過ぎで自己破綻した」というように、2ちゃんねるに書いておられた方もいたようだ。
しかしその解釈は違う。私は、もともとあまりステロイドを使っておらず、悪化したのにその量を増やしもしなかったため、悪化をくい止められずに破綻してしまったのである。
皮膚科医としての面子(めんつ)を保とうと、こういう主張をしているのではない。
むしろ私は、皮膚科医として日常的にステロイド外用剤の効果を見ていく中で、長期的視野で見たその有効性に、ぼんやりとした疑問を抱き続けているような人物だった。
その結果、患者に対しては教わった通りのステロイドの処方をしながら(私なりに減量の努力はしていたが、それは甚だ不確かなものだった)、自分に対しては極力使わないという、矛盾した行動をとっていたのであった。
サイトを開設したのは、アトピー性皮膚炎のために社会生活から脱落して数年を経て、ようやく幾らかの気力が出てきた頃である。
この時、「脱ステロイドの必要条件」という記事を書いた。
この記事の「脱ステロイド」は、「除ステ」と「非ステ」の2つを含んだものとして書いた。
自らの経験から伝えたかったのは、重症患者が「非ステ」でいることの難しさと、それでも何とか対処するための方策であったのだが、当時「非ステ」になることは、前述のように、まず必ず「除ステ」という過程を含んでいたのである。
そして、「除ステ」の苦労は、「非ステ」のそれと多分に重複するものであった。
それゆえ私はこの記事を、「非ステ」だけではなく、「除ステ」「非ステ」両方を対象としたものとして書いたのである。
それが或いは、私に対する誤解を促進したのかもしれない。
とは言っても、他の方の考えはその方なりのもので、私がとやかく言うべきものではないから、私がその方たちにどう思われているかということは、別段どうでもかまわない。
この「除ステ」と「非ステ」の違いにこだわりたい訳は、以下の私の主張にある。
何度も書いてきたことの繰り返しになるかもしれないが、
それは、「ステロイドを目の敵にすることのやるせなさ」である。
ステロイドの害から抜け出しさえすれば、アトピー性皮膚炎は快癒するかのように、言う人がいる。
私はそうは思わない。
ステロイドは、アトピー性皮膚炎の治療薬であるに過ぎない。
根本的な問題は、アトピー性皮膚炎にどう対処し、症状の改善を導き出すかということである。それが主幹である。
それと比べれば、ステロイド問題は、枝だ。ただ、根元にかなり近い所に生えている飛び抜けて太い枝だ、というだけのことである。
これを、ステロイド問題が主幹だと取り違えてしまうことにより、弊害(へいがい)が生じているのが現状ではないか、と私は思っている。
その1。ステロイドをつけたために自分はこんなに酷くなった、すなわちステロイドさえ使わなければ自分はこんな酷いことにはならなかった、と患者が考えたらどうなるか。
ステロイドという薬に対する憎しみ、ステロイドを処方した医師に対する恨みが、患者の心の中に容易に生まれ育つだろう。
しかし憎しみは憎しみの連鎖しか生まない。
患者の症状を軽減させることを自らの責務と思ってステロイドを処方している医師は、この患者の恨みの理由を理解できない。
彼らは保身に走り、ただ対立と断絶が残る。
その2。ステロイドを止めて生活改善に励み、快癒した患者がいるとする。
その人は幸福であり、それは非常にいいことである。
だが、その人の心中には、苦難に耐えた自分の努力に対する自負心が当然存在する。
それが、いまだステロイドを使っている患者、或いはステロイドを止めたけど上手くいかず悩んでいる患者を、「ちゃんとやれば治るのに、いつまでそんな愚かなことをしているのか」と、幾らか見下すような気持ちに繋がっていったりはしていないだろうか。
これは、患者という集団の中での断絶になっていく。
ここでも対立の構図が生まれる。
私自身が「除ステ」の過程にあるリバウンドに苦しんでいないから、こういう言い方ができるのかも知れない。
「多ステ」で、それを断つのに悶絶するほどの思いをした患者は、「ステロイドさえ使っていなかったら、ただアトピーだけだったら、もっとどれほど楽だったか」と繰り返し考えずにはいられないだろうし、その厳しさを乗り切るには「馬鹿にするなよ、治ってやるぞ」という、憎しみから生じる復讐心をエネルギーとすることが必要ともなるだろう。
しかし、いつまでも憎しみや恨みを自分の心の中心に据えておくことは、どうだろう。社会として建設的でもないし、人として幸福でもないのではないだろうか。
私が現在、ステロイドを処方する医師の所で働いているから、そうした医師に対して情が移って、ステロイドを使ってもいいと考えるのか。
私は自分では、そうではないと思っている。
当初から私は、「ステロイドを使え」という押しつけに反発するのと同様に、「絶対に使ってはいけない」という強制にも、強い違和感を感じていた。
病の床で、「軽快した暁(あかつき)にはどんな皮膚科医になろう」と夢想する時にも、「何が何でもステロイドを出さないような医師になる」という考えが浮かんでくることは、微塵もなかった。
現実は複雑である。
「非ステ」でいることの苦しみを、私は骨身に沁みて知っている。
この現代という時代に、中でも高度な文明に依存する国の1つである日本に、生きる者が、暴露(ばくろ)し続けなければならない多大なアレルゲンやストレスの、存在を知っている。
生活や治療に手間と時間を掛けることを妨げ、むしろ体に悪いものを次々と押し付けてくる、社会の構造を知っている。
だから私は、アレルギーという弱点をステロイドの力で覆い封じ込め、生活を成り立たせようとする試みを、否定する気には全くなれない。
私自身、もしも家族の協力や必要な経済力という幸運に恵まれていなければ、幼子を抱えて、ステロイドか破滅か、という選択を迫られていたかもしれない、と思っている。
繰り返して言う。
根本の問題はアトピー性皮膚炎だ。
アトピー性皮膚炎という、アレルギー疾患だ。
時を経るにつけ、「ステロイドを使うからどうだ」、「使わないからどうだ」、という問題は、私の中で小さくなっていく。
それは治癒軽快を目指す過程に存在する、手段の1つに過ぎないのだから。
「連中はなんでステロイドを出すんだ」
「連中はなんでステロイドを止めろと言うんだ」
「信じられない、そんな馬鹿なことを続けるなんて」
という議論に対して、私は食傷(しょくしょう)している。
なぜなら、それは議論ではないからだ。相手の意見や心情を理解しようという気持ちのない、一方的な自己主張でしかないからである。
多分私が「除ステ」経験をしていないことは幸運なのだと思う。
もししていたら、リバウンドの苦痛のトラウマが私の心に、「ステロイド」への自動反応的な激しい拒否感を植え付けてしまったかもしれないから。
それはきっと私に、平静な見方をすることを難しくしただろう。
私が「少ステ」でいられたのは、医師になるまでは、毎日きっちり薬をつけるような几帳面な性格でなかったこと、医師になってからは、薬に関する知識があるために自分なりの評価ができたこと、が主な理由だと思う。
アトピー性皮膚炎にステロイドは、できることならばつけないがいい。
つけるならばいい加減につけるがいい。
つけようがつけまいが、気に病まぬよう。どちらの選択も間違いではないのだ。
標準治療の医師と、非ステロイド派の医師。
それが対立せず並立する体制が、私の抱く理想である。
1つの病気の治療法は、1つでなくていい。
互いの治療方針を認め合い、否定することなく、状況に応じて患者を紹介し合える体制になれば、どんなにかいいだろう。
患者も、自分の主義主張に従って自分の治療方針を選び、他人のことはとやかく言わない。周囲の人も、その人の選択を尊重する。
そして、小手先の治療法ではなく、アトピー性皮膚炎の病態がより解明され、根源的な原因となっているものに肉薄(にくはく)する治療が行える時代にならんことを。
切に祈る。
2007.10.