“どうして医者っていうものは、こうも"上から目線"なんだろう?。”
患者は弱者、
すなわち救ってやらなければならない哀れな者たち、
無知なる者、
誤りの中にさまよう者。
そうした見下しを、医師の言葉や態度に、感じることはないだろうか?。
私は、よくある。
医師は患者を「なんとかしてやろう」とする。
それは立派な志。
でも、どうして「なんとかしてあげたい」や「しよう」ではなくて、「してやろう」なのだろう?。
上から目線である。
果たして、医師は患者にとって目上の者か?。
患者は医師の目下に位置するのだろうか。
医師は、健康と病気の専門家だ。
だから、それらについてよく知っているとされている。
その知識をもって、患者を指導する。
患者の認識が誤っているのなら、それを指摘する。
それは医者の仕事。当然の役割だ。
だけど、「指導的立場」とは、「上の立場」すなわち目上ということか?。
指導する人は、先生。
世に先生と言われる職業と言えば、医師、教師、そして弁護士。
教師の場合、生徒が若年であれば、年齢的、人格的に目上になるだろう。
しかし弁護士なら、専門的知識の提供を受けるという契約の対象であって、目上ではない、という考えも自然である。
医師も、病気の予防・診断・治療という専門的技能の提供の契約と考えれば、必ずしも目上の存在ではない。
しかし現実には、ふつう医師は目上としての扱いを受ける。
患者や医師周囲の職員が、医師の専門的有能さを尊敬することで、自然発生的に自分より上の立場の者として認識するならいい。
それは自然なことだ。
だけど患者と医師の間には、それとは別の事情がある。
本質的に患者は医師に対して立場が弱い。
医師は患者の体をいじることを許されている。
その医師次第で自分の体の未来が180°変わり得る時に、患者が医師に対して強い態度に出ることなど、そうそうできるものではない。
すると医師は患者に対して、支配的な立場に立つ。
患者は、医師の意向に従属する立場になる。
指示に素直に従うか、聞いたふりして無視するか、別の医師を見つけるか、さもなくば医治を受けることをあきらめるか。
そのどれかしか、選択肢はないのだから。
「尊敬に値する者」としての、上の立場。
「支配する者」としての、上の立場。
この2つは全く違うけれど、医師にとっては、実は非常に混同し易いものなのかもしれない。
例えば、こんなふうに。
有能である
→知識や技能が優れている
→自負を持つ
→自分にかかれば患者はより良く救われると思う
→より多くの患者にそれを施したいと思う
→より多くの患者が自分の言うことを聞くべきだと思う
→みなが自分に従うべきだと思う。
・・という図式。
あるいは、
自分は患者より良くものを知っている
→患者は感嘆して話を聞く
→さらに指導して下さいと言う
→私は指導し、患者はそれに従う
→それがあるべき形。
・・という図式。
いかにもありそうではないか?。
医師の自負が生む、支配的思考。
「私が正しい、患者は私の言うことを聞け。」という思考。
それが私には、鼻持ちならない。
医師は確かに、より良く知っている。
しかし全てを知っているわけではない。
なぜもっと謙虚になれないのか。
医師が患者に指示を与える時。
その医師の挙動を患者から見ると、医師自身はもしこの病気に自分がなった場合、到底その指示の内容を実行するとは思えない。
そんな医師に、私は大変違和感を覚える。
患者の苦渋は所詮他人事なのであろう。
他人に命令するのは簡単だ。
しかし自分で実行することは、とても難しい。
そのギャップに医師が気付かない限り、患者との温度差は埋まらない。
患者は、その難しい努力をしている者だ。
敬意を払われこそすれ、軽んじられるべき対象ではない。
上から見る者と、下に見られる者。
下にいる者は、プライドが傷付けられるから、そのことの不合理にすぐ気付く。
しかし上にいる者は、気付きにくい。
上にいることは、快適だから。
上から目線に、くじけるな患者よ。
2008.7.