現代医学が治せない難病といわれる病気に対して、医師がよく使う言い回しがある。
「病気と上手に付き合っていきましょう。」
なかなかよくならないアトピー性皮膚炎患者なら、誰でも一度ならず言われたことがあるだろう。
私は、医師にこう言われることが大嫌いである。
どう付き合っていくのが「上手」なのか、彼らは本当に知っているのか?。
私にはそうは思えず、ただ知っているという虚像を作り、それを患者に信じ込ませたいだけのように見えてしかたがない。
この言葉に続く、実際の上手な付き合い方のノウハウは、具体的なようでいて、よく聞いていると、建前論だったり曖昧だったりする。
それが当然なのだ。
もしノウハウが、明瞭にシュミレーションできる程に確立されて、かつ成功しているなら(つまりそのシュミレーションに従い行動した患者のほとんどが、良好にコントロールされた状態を長期に渡って保てているのなら)、既にその病気は難病と呼ばれてはいないだろう。
だからこの「上手」は、とても嘘臭いのだ。
体内の状態は常に動的であり、患者を囲む物質的心理社会的環境も刻々と変化する。
その中で何を持ってして、「上手く付き合っている」、すなわち良好にコントロールされている状態というものを規定することができるのだろうか。
数値的な指標が様々に提示されていたりしても、それらはそれぞれ病気の全体像ではなく一面をしか反映していなかったり、実際には、常に守ることはできない数値だったりするのではないか。
医学的科学的に、どんな治療をどの位の量と期間行なえばどの程度の状態を維持できるかということを明確に呈示できない場合に、この「上手く付き合う」という言い回しが代わりに呈示されるように思う。
医師は病気の治療に関して明確な解答を持っているものと期待されている。
ところがそうではなく、それなのに持っているものとしての権威を維持し続けたいという、医師の無意識の作意を、この言葉は感じさせる。
社会通念的にみて、アトピー性皮膚炎が「上手に」コントロールされた状態とは、どんな状態だろう?。
それは、社会生活すなわち仕事や学業に支障を来さず、人前で痒がったり掻いたりせず、医師や周囲の人に苦痛を訴えて困らせるようなことはなく、良い状態で満足だという態度でいること、そんなイメージではないだろうか。
それが良いとすると、それを実現できない患者は、落伍者となる。「病気と上手に付き合う」努力を怠っている者となってしまう。
よしんば実現できたとしても、その時患者は、本当に満足しているわけではない。
「お陰さまでいい状態です。」と患者は言うかもしれない。
しかしその心の中には、苦痛に耐え続けることの鬱屈と、完治しないことへの閉塞感が渦巻いている。
それを表現しても受け入れては貰えず、わがままと疎んじられることが分かっているから言わないだけなのだ。
「上手に」という言葉は、患者の行き場のないつらい気持ちを封じ込める力を持っている。
「上手に付き合えばいい」という言葉は、患者の気持ちを楽にする役には立たない。
そればかりか、患者のありのまま(の悪い状態)を受容するつもりはありませんよという医師側の姿勢を患者に伝える言葉となる。
「上手に付き合う」かどうかは、患者が決めることだ。他人に指示されることではない。