気候の良い春から秋は、学会シーズンでもある。
この1カ月くらいの間に私も、アトピー性皮膚炎関係の医学学会・講演会を、立て続けに4つ、聞いてきた。
で、感想である。
聞くほどに、心が冷めていくのを、私はどうにもすることができないでいた。
大変失礼であるが、「つまらない」というふうに感じられて、しかたがなかったのである。
なぜか。
決して、演者の方が手を抜いているとかいうことではない。
どなたも、内容をきちんと整理し分かりやすく述べられていたし、治療に向ける演者の情熱が伝わってくるものも、少なくなかった。
知識として重要なことも、述べておられた。
初めて聞く人にとっては、おそらく充分勉強になるものなのであろう。
ただ私にとっては、既に知っていることばかりで、目新しいことがほとんど見当たらなかった、というだけのことかも知れない。
でも。
いや、それだけではない。
つまらなかった理由の主体はたぶん、講演の内容ではなく、方向性にある。
どのお話も、
「こうすれば、ああすれば良くなる。そうすることが大事なんだよ。」
というアピールに終始していたこと。
それが、私にとって最大の失望の種だった。
・・そうかな?。・・そうだろうか?。
そうはいかないから、みんな困ってるんじゃないの?。
近年アトピーが、関係する医学会の主要な主題の一つであり続けているのは、
その治療に、多くの医師が難渋しているからだろう。
アトピーを説明する講演会に、大勢の患者や患者家族が集まるのは、
どうにも良くならなくて、何かいい方法がないか、と求めているからだ。
医師の描く理想図のように良くなる人も、確かにいるには違いない。
けれど、そうではない患者が、実際に沢山存在しているのだということを、
私だけではない、おそらく聴衆の少なからぬ人が知っている。
だとすれば、こういう会は、茶番になってしまう危うさをはらんでいる。
どこの医師も治らぬ患者を抱えて悩み、
患者は患者で、治らぬ自分自身を持て余している。
そんな現実のただ中で、上手くいった患者例のみの呈示は、何ともうそ寒い。
演者たる治療者が、暗部・恥部から目をそらせ続けているのなら、
聴衆は共感のしようがなく、その主張は上滑りに終わるだろう。
ある講演後の質疑応答で、医師から、
「その方法で何割の患者が良くなっているのか?。」
という質問が出た。
至極もっともな、疑問ではないか。
みんなが知りたいと思っているのは、「現実に本当に良くすることができる治療法」なのだ。
「良くできると言われている治療法」では、ない。
そんなにうまい話ばかりが転がってはいない、ということも、
すでに多くの人が知っているだろう。
それらの人は、例えば「10人中1人だけを治せた」というような治療でも、その可能性の少なさをも含めて、受け入れる良識を持っているかもしれないというのに。
大きな学会では、事態はさらに悪く、予定調和的雰囲気の中、進行時間管理が優先され、こうした質問の出される余地さえ、失われている。
せっかく専門家が一同に会する少ない機会なのに、なんとも勿体のないことだ、と私には思われる。
医師の見ている方向と、患者の見ている方向が、乖離(かいり)している。
もっと言えば、指導的立場にある権威筋の医師たちと、一般の医師たちの見ている方向までもが、おそらく乖離しつつある。
この乖離は、どうしたことだろう。
医療とはむろん、患者の病気を治療するためのものだ。
それが、患者が治るために求めていることと、離れていくのなら、いったい何のための治療なのだろう。
患者が認めない治療では、意味がない。
医師の治療が押し付けになってしまっては、患者も医師も浮かばれない。
医師たちに望む。
患者の不満の存在を、認めるように、方向転換してほしい。
それを、無知や誤解の産物と片付けないでほしい。
だって現実に、あなたが思うように治せないでいるアトピー患者を、あなたも今すぐ何人か、思い起こすことができるだろう。
患者は、あなたたちを責めようと思っているのではない。
ただ、現状が困難なのだ。
医師がそれを認めることから始めなければ、医師と患者の信頼関係は築けないと私は思う。
それを認めてくれるのなら、患者はこの困難な道を、医師という案内人を信用して歩いて行くことができる。
患者の不安は、ヒステリーではない。
医師の努力は、無駄ではない。
空しく非難の気持ちを抱き合うより、相手を理解しようという気持ちを持てたなら、お互いにいたわり合うことも、きっとできるはずだ。
こんな空虚な気持ちを抱えて帰らなくてもいい会に参加できる日がくることを、
夢見て心の隙間を埋めてみた。
2009.7.