パソコン・インターネット・携帯電話の技術の発展によって、私たちは文字によるコミュニケーションをとることが多くなった。
かつては、文字は主に印刷物などの一方通行の媒体であることが多く、双方向である手紙・葉書は、時間のかかるものだった。
この変化はもちろん小さくはない。
が、好むと好まざるとに関わらず、私たちは、それが存在する世界で生きていかなくてはならない。
姿も声も見えない相手とのコミュニケーションは危険だ、という月並みなインターネット悪者論は無しにしたい。
相応な判断力と人への思いやりを備えた人間の交流の手段としての、この媒体について考えたい。
手紙がそうであるように、文字だからこそ伝えられる、或いは伝え安いこともあるのだ。
この媒体の良い点とは?。
−様々な点で、便利だということが大きいだろう。
・発信者の都合の良い時に送り、受信者の都合の良い時に受け取ることができる。
連絡がつかないという問題をほとんど避けられる上に、都合の悪い時に相手に介入して迷惑を掛ける心配をする必要がない。
・情報を伝えたい場合には、口答より確実で誤りが無い。
さらに最近では、写真などの画像の情報でも送ることができる。
・遠方の相手にも、安価に容易に連絡が取れる。
・簡便で、面倒がって止めてしまうことが少なくて済むし、大したことのない用件でも送り易い。
それらは、確かに「機能として便利」だということを示している。
でも、それだけではないのではないか?。
私たちがその媒体を選ぶ理由として、「自分の精神への負担の少なさ」としての便利さがあるのではないか、と私は思う。
それは、簡単に出せて、一方的でよく、断られることが無い。(まあ、返事が来ないということはあるが。)
とても、楽である。
新聞の投書で、
「最近は、お祝い事があって贈り物をしたりしても、みな、メールの「ありがとう」で済まされてしまうようになった。直接話がしたいのに、淋しい。」
というのがあった。確かに、と思った。
「もの云わぬは、腹膨るるわざ」という。思いは胸の内に溜めず、適度に放出していかなければならない。
文字の形で放出することでも、むろんそれは解放されるのだが、口を動かし声を出す、という身体を使った放出の形には、また別の、それ以上の効用がある、と私には思われる。
文字だけで済むようには、人間はできていないのではないだろうか。
文字によるコミュニケーションには、他にも欠けている点がある。
それは、相手の気配を感じるのが困難という点だ。
場の雰囲気は伝わらない。顔の表情も声の調子も伝わらない。活字でのコミュニケーションでは、筆跡すらない。
それは、書かれた言葉の内容や意図に対して、受け取る側に誤解を生じさせ安くする。
顔マークなどの雰囲気を伝える記号が用いられるのはそれを補うためだ。
私は、メールを書く時、ネット上の書き込みをするとき、とても気を使う。
読む人がどう受け取るかを考えながら、何度も文章を推敲する。
それでも、思ってもみなかった受け取り方が返って来ることは、しばしばある。
そんな時は、もどかしく思う。
口答ならば、その場で相手の反応を見て、「そういう意味で言ったのではなくて」と、軌道修正することができる。
相手もまた、言われた言葉の意図を図りかねるときには、「それはどういう意味?」と問い返し、誤解を避けることができる。
文字でも確かに問い返したり、誤解を説明し直したりすることはできるのだが、そこにタイムラグが生じることは否めない。
タイムラグが生じることを必然とする手紙の場合と違って、メールやネットは即時的な媒体であることを考えると、このタイムラグは、矛盾しているようでもあり、私は時に掴み切れない感覚に戸惑う。
すぐなのに、すぐではない。手が届きそうなのに、届かない。
そんな感覚を、この媒体に抱くことがある。
実際私たちは、まだ慣れていないのだと思う。
この、新種の文字によるコミュニケーションの持つ特徴を、もっとしっかり把握していかなければならない。
そして、それを既存のコミュニケーション手段と、どのように共存させ使い分けていくかを、考えるべきだろう。
新しい媒体は、生活をより豊かにするために用いられるべきである。
私たちは、それだけの賢さを持たなければならない。