病んで、仕事ができなかったり床に臥していたりする。
そうした状況を知ると、皆いろいろなことを言う。
「なんとか(快く)ならないものかねえ」というのが多くの主旨だ。
それは心配して下さるということで、有難く思うべきなのだろう。
しかしひどく疲れる。
「あれをしてみたら」「これがいいというよ」
効くと言われたことのあるものなら何でも話題に出される。
医療者は正当な西洋医学しか勧めないかというとそうとも限らない。
まずステロイド、次に痒み止めスキンケアなどの周辺療法、プロトピック、高名または名医と呼ばれる皮膚科医を勧め、首を縦に振らずに居るとやや譲歩して漢方の話になる。
さらに海水療法、紫外線療法などの、医師が行う非典型的療法へ、そしていわゆる民間療法へ派生して行く。
もううんざりなのだ。
大概の治療法に関しては、とうに自分である程度の情報を集め検討を済ませている。
未知の可能性も含めてその利害を勘案した上で、自分がそれを行うかどうかを決めているのだ。
対して勧められる治療の大半は、悲しいくらいに、聞き齧りや伝聞の断片的な知識でしかないことが多い。
自分のことではないのだから、患者本人のような真剣さがないのは当然でもあろうが、まがりなりにも人に勧めるからには、少しくらいは情報収集をしてからにして欲しい。
患者でありながら医師でもある私には、「あれが効く人もいるみたいだけどどうなの?」...と、勧められていると思っていたらいつの間にか質問になっていたという笑えない話もよくある。
健康な人は病人の心理が分からない。それは仕方のないことだ。
人間は自分の体験したことしか実感できないように出来ている。
医療者とてもその例外ではない。
患者は自衛のために、そのことを知っておく必要がある。
病気を実体験し味わい尽くしている患者は、ある意味で医療者よりもさらにその病気の本質に近い所にいるのだ。
知ったかぶりで指図をするのは止めてくれ。
何かの治療を施せば、それで良くなる場合ももちろんあるだろうが、逆により悪くなる場合もある。
それが自明の理ではと思うのだが、不思議なことにこうして勧める人は、良くなる場合のことしか想定していないことが非常に多い。
まして健康でない肌と既にバランスを崩している免疫系である。
些細な刺激で悪化するし、悪化した分を元に戻すのは大変なのだ。
治療の結果が凶と出た場合に誰が責任を取ってくれるのか?。
ー治療を勧めた人ではない。患者だ。患者が苦しむしかないのだ。
にも関わらず、患者が勧められた治療を断ると、それは勧めた人にはとても不本意なことらしい。
私は断るに際し、自分がその治療を選ばない理由を、相手の立場で理解しやすい言い方を考えつつ説明する。
これ自体とても疲れる作業であるが、その結果は多く徒労に終わる。
相手は、「これ以上勧めてもだめだ」ということは理解するが、その理由に納得することは殆ど無い。そしてただこう思う。
「あなたのためを思って言っているのに、何故そうも頑ななのか?。」
かくして私は、治そうと努力する気のない怠け者か、打ちのめされて意欲を失った鬱病患者か、はたまた病気で性格まで捻曲がった変人かのどれかと断ぜられることになる。
定職を持つ(未成年なら学校に行く)という社会的な形を整えることを周囲は要求する。
体の中で病気が治っているかどうかではなく、傍目から治ったように見えるようになることを要求するのだ。
そしてもうその人の病気に関し配慮する必要のない状態になり、安心したい。
僻んでいるように見えることは百も承知でこう書いているが、実際こちらから見ると、周囲の人の目的はそういうふうにしか見えなかったりする。
さらに言えば、大人なのに働いていない、病気だというが入院も手術もするわけではない、家に居るし会う時は元気そうなのに動けないという_そんな、社会の中でのステレオタイプから外れた、療養生活という生き方は、周囲の人にとってとても理解しにくいようだ。
理解しにくいだけでなく、社会人はかくあるべきという、彼らの理念の枠組みを脅かすものと受け取られているのではと感じることがある。
それで、かれらは居心地が悪く不安になり、その不快感を消すために、私に、いっそう早くステレオタイプにはまることを要求してくる。
しかしその周囲の希望にはおいそれと答えられない。
誰よりも患者自身が治りたいと思っていることを忘れてほしくない。
そして同時にその治ることが難しいことを身に沁みて知っているのが、患者なのだ。
自分が働けなかったり起きられなかったりすることで、周囲の人に迷惑を掛けていることはもちろん自覚し心苦しく思っている。
だからもう放っておいてほしい。
治療法の勧めは、患者にとって、慰みの世間話として話すには、あまりにうっとうしすぎる話題なのだ。