[アレルギーの迷宮]



. 今年の花粉症は、また何という猛威だろう。


外に出れば、マスクを付けた人と頻繁にすれ違う。
例年になく症状がひどかったり、始めて発症したりの人も多く、病院・薬局・対策グッズ売り場は大繁盛。

過熱した報道は、早くも年明け前からこの春は多い多いと騒いでいて、すでに知られた通り一遍の対策情報や、見たくもない花粉の映像を、繰り返しこれでもかと流し続けている。

イメージと不安の増幅は未発症の人にも及び、くしゃみや鼻水が出る度に「もしやこれは花粉症の始まりでは・・?」と懸念することを強いられているかのようだ。
「風邪をひいた」と言えば誰からも「風邪じゃなくて花粉症かもしれないよ」という返事が返ってくる程、それは皆の頭の中に、こびりついている。

それでもようやく4月になって、飛散の季節も先が見えるようになったかと思いきや、さらに5月には高地のスギの花粉が舞うとか、秋にも少量ながら飛ぶという報道を目にした。


まったく、誰であっても、「もういい加減にしてくれ!」と叫びたくなるような、八方塞がりの状況ではないだろうか。


情報化社会の良し悪しは裏表で、あらゆる情報の入手が容易になる反面、誰もが情報を発信したがり、毎日の暮しが情報で溢れかえっている。

必要以上の情報や質の悪い情報は、むしろ有害ともなる。
脳は、確信したイメージを具現化しやすいものであるから、良くないもののことを考え過ぎることで、むしろそれを呼び寄せてしまうことさえあるかもしれない。


戦後の植林政策で日本中に植えられたスギが、花粉を飛ばし抗原となっているからといって、政府に怒ってもスギが無くなる訳ではないし、水を含んで山を水害から守っている生態系である林の木々を、ことごとく刈り取ってしまう事もまた、できる相談ではない。

近年の都市化で、花粉がディーゼルエンジンの排気と結合して抗原性を発揮するようになったとか、地面が舗装で覆われたので花粉が繰り返しまた遠くまで舞うようになったといった指摘もある。
車も舗装も、すでに私たちの生活の基盤であって、除くことなどできようもない。

仕方がないから花粉を飛ばさない程スギの木が老齢化するのをただひたすら待つか・・?。
いやいや、いったいそれはどれ程先のことだろう!。


原因を除くことは、しばしば容易でなく、不可能でさえあったりする。
この世のあらゆる要素が絡み合い影響しあって、川が流れ下るように行き着いた先が、今起きている事象なのだから、それは当然のこととも言える。
その事象が不都合極まりないものであった場合、私たちは果たしてどうしたらいいのであろうか?。


語られている花粉症への対策は一貫して、「暴露を避けること」と「薬で症状を抑えること」という対症的な二本柱に尽きている。

例えば減感作という完治を望みうる治療は、著しい手間が掛かる上に確実性にも難があるきらいがあり、ごく一部で行なわれるにとどまっている。
漢方薬や養生により緩解を得る人もいるが、それもまた少数である。
最近では鼻粘膜の反応性を抑えるレーザー等による手術的処置も開発されているが、そこまでしても年を追っての再発が起こる。

誰に対しても有効なのが、この一般的な二本柱の対策である。
抗原の量と症状がそこそこまでの範囲なら、確かに説得力を持つものであろう。
しかし、今年のように抗原が多すぎる状況でや、症状の酷い人にとっては、どうだろう、それも耳に空しく響くだけなのではないだろうか。

「避ける」努力をいくらしても、避けきれない花粉。
「薬」をいろいろ使って、やっといくらかましになる程度の強い症状。
残された対処法は、ただただ「耐える」ことしかない。

抗原はこちらの都合を斟酌(しんしゃく)せず襲ってきて、生活を、困難で苦痛なものにしてしまう。
なんと残酷なことだろう。


アレルギーは増え続け、重症化し続けている。

花粉症に限ったことではない、喘息も、アトピー性皮膚炎も、食物アレルギーも。
それらは、先進国に於いて、生活習慣病・癌と並ぶ、臨床医学上の主要な主題になっている。


かつて病気というもののイメージは、「ある一部の人が、不幸にしてかかってしまい、特別な状態になってしまったもの」といった概念だったのではないだろうか。

病気であることは、特別で、例外なのであり、それはその「くじ」に当たった人が背負っていくべきものであって、それ以外の健常な人にとっては、言ってみれば「他人事」でしかなかったのではないだろうか。


しかるに今、病気の概念は変革期を迎えつつあるように思う。
例えば、国民の10%以上が罹患し、さらに増加し続けている病気を、「例外」や「特別」として、片付けることができるとあなたは思うだろうか。

誰もが、自分の身近に感じ、いつ自分の身に降り掛かるかも知れない病気。
それはすでに個人の問題ではなく、社会の問題として考えなければいけないものなのではないか、と思えてくる。


地球環境についてのあるドキュメンタリーで、
「自然豊かな南洋の島で、喘息患者が急速に増えている」というレポートを見た。
その喘息の原因は、気流に乗ってやって来る、離れた先進国からの汚染された空気だった。

アレルギーの圧倒的な増加の要因として、環境の悪化は、間違いなく大きな因子であろう。
その影響は、先進国を越えて拡がりつつある。

日夜感染症や飢えと闘い、Th2よりTh1リンパ球が優位でアレルギーを起こしにくいと言われている発展途上国の人たちでさえ、アレルギーと無縁ではいられなくなっていくのだろうか。


社会はもちろん、環境の悪化をできる限り防ぐ努力をし続けなければならない。
しかし、それでも増加していく溢れる抗原の只中で、生きて暮らし続けていくことが、おそらく現代人の宿命なのだとも、思わざるを得ない。

アレルギーは、時代の必然なのだ。


ところが、病気になるのが宿命といくら頭で理解できたからといって、その苦痛を受け入れられるかどうかということとは別問題である。

人の体と心は、苦痛を好んで生きていくようにはできていない。
「とにかくつらい、何でもいいから楽にしてほしい!」と思うものである。

そんな中で、少なくともことアレルギー性疾患に関しては、自分もそのひとりである西洋医学の医師というものの無力さに、ひたすら地団駄(じだんだ)を踏む思いでいる私である。


アレルギーの症状の程度が強くなればなる程、医師の対症療法に対する患者の満足度は必然的に低下する。

抗原を避けきれず、薬で症状を抑えきれなければ、それ以上医師にはなすすべがない。
医師にできることは患者をどの程度か楽にしてあげることだけで、治すことはできないのだ。

仕方がなく、より強い症状にはより強い対症療法を多用して、より多くの患者の症状を抑え込もうとしているのが、現状であろう。

しかし、社会に於けるアレルギーが悪化する一方ならば、この手法はいつか行き詰まることを避けられない。
抑えきれない、むしろ副作用が出てきたりする、という問題が、次第に大きくなっていくしかないからだ。


全ての患者にとっての夢は、その場しのぎの症状の抑制ではない、病気からの解放である。
事ここに至っては、そのための方法論こそが強く望まれている。
ではその方法論とはどんなものであるだろうか−?


第1には、免疫系を暴走させないために基本的な体調を整えておく、という、「養生」になるだろう。

「不摂生をして体調を崩しても、薬がすぐ治してくれる」という個人の考え方や、「休みもなく働くだけ働け」という社会の考え方では、治るものも治らない。
多くの人が、発想の転換を迫られるだろう。


第2には、「自然治癒力を促進する方法」であろう。

西洋医学の市場占有を維持したい多くの医師は認めたがらないだろうが、東洋医学を始めとする世界中の幾多の代替療法の中には、確かにいくつかのそうした方法がある。

問題は、これらのほとんどには規制がないために現実の市場ではピンからキリまでのものが雑多に混在していて、インチキと本物の見分けが非常に難しいことであるのだが、それでも、西洋医学の治療に限界を感じた患者は、次第に少しずつそちらへ流れていくだろう。
お金と時間を使ったけど無駄だったという失敗をしたりしながらも、それでも患者は情報を集め試み続け、自分にとっての本物に出会う者も、少なからず出てくる時代になると思われる。


この2つが、新しい治療の二本柱として想定されるものだと思う。

そうして、さらに新しいこんな第3の柱を、私は夢想する。

アレルギーは、今まで何ともなかったものにある時点から反応を示す(感作されたという)ようになり、その抗原の種類は人によって実にさまざまで、しかも、ある人にとって抗原であるものが他の人にとっては何の反応も起こさない、という、実に興味深い病気である。

その人にとっての抗原(ひとつかもしれないし多数かもしれない)が、その人にとっての病気の元であり、それに反応しなくなることが、その人にとっての治癒である。

ならば、純粋に個人的にその人の抗原に対して対処することがもしできるなら、それこそが一番の、治療の近道なのではないだろうか。


「体が抗原として認識している状況」を、何らかの方法で「検出」することができないものか。
そして、その抗原だけに対する「異常な反応」を直接狙い打ちして「解消」し、正常な反応に戻すことができないものなのだろうか。

現在のところ、この抗原に対する特異的な「検出」も「解消」も、不充分な方法しかない。
しかし、抗原の種類こそ違っても、アレルギー反応というものがある一定の決まった機序で起こっているものならば、何らかの、検出または介入できる一定の部分が、見い出される可能性はあると考えられるのではないかと私は想像してみる。

もちろん抗原となりうるものは限り無く沢山あるのだから、そう容易な検査や治療にはなりえないだろう。
しかし、少なくとも、一般的に利用可能な程度の煩雑さに留まり、実行する価値があるだけの確実性を持つような、現実的な検査と治療が。


「抗原を特異的に検出」し、「抗原に対するアレルギー反応を特異的に終息させる」手法は、これだけ事態が切迫してきた時代において、アレルギーに苦しむ人、それを何とかしてあげたいと思う人の誰でもが、渇望しているものだと思う。

これほどまでに望まれ必要とされ、整合性もあるものならば、いつか出て来るべきもののような気が、何となく私にはしている。
そうしたら、かつて時代ごとに病気の治療法が何度も塗り替えられてきたように、アレルギーの治療もまた、今とは全く違ったものになるかもしれない。

・・愚かな夢物語だろうか。


どんなに長く深いアレルギーの迷路にも、出口は必ずきっとどこかにあるはずだ。

私はそう信じ続けている。


2005.4  

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