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0才: 首都圏に生まれる。出産は帝王切開(母体の骨盤が狭く陣痛微弱のため)。 自宅は住宅地の木造二階建て一軒家で、風通しがよく、壁は木と漆喰が半々だった。 同胞・両親及びその同胞・祖父母に、アトピー・喘息・アレルギー性鼻炎(花粉症)の者はいなかった(同胞の一人が成人後鼻炎)。 乳児期: 3ヶ月頃乳児脂漏性皮膚炎(前頭部の痂皮性湿疹;アトピーの徴候といわれている)の症状は強かった。それ以外に湿疹がひどかったということはない。 幼児期: 身長が低く、以後成人に至るまでいつもクラスで一番前だった。(両親も低い。) 著しい少食・偏食で、父に「霞を食べて生きている」と言われていた(^^;)。 母によると、「ごく小さい頃はろくに食べず牛乳ばかりを飲みたがって沢山飲んでいた」という。しかし私の記憶にある限り、牛乳は嫌いな食物で、母のこの言葉はとても意外だった。 (腸管機能が未熟な時期のこの高分子蛋白大量摂取は、私のアレルギー体質形成に寄与したこと想像に難くない。) 幼稚園時、弁当をジャムサンド一つだけ食べてあとそっくり残して帰って来た記憶がある。6才時、田舎に数日子供だけで泊まった折は、叔母が何を出してもほとんど食べず、やせこけて帰って来たそうだ。 揚げ物は一切食べなかったし、とにかく食事に関してあれが好きだったとかおいしかったという記憶がない。 本ばかり読んでいる子だった。疲れて帰ると絵本を開いた。 アトピーというほどのものはなかったが、タートルセーターは着れなかったし、毛のタイツは大嫌いだった。 小学生: 家にばかりいたのではない。普通の子供のように毎日日暮れまで外で遊んだ。 ただし4年で学習塾に行き始めてからは机で過ごす時間がめっきり増えた。 夜は、低学年で8−9時、高学年で9−10時には寝ていたと思う。 食事はそれなりに食べるようにはなったが、人から見ればまだまだ小食で、食べるのが遅く給食は食べきれなかった。一方甘いお菓子が大好きで、よく食べた。チョコキャンディーのおいしさに感激して沢山食べ、鼻血を出したことがある。 低学年時は、ほぼ毎月一度風邪で休んでいた。自宅が小児科医院だったので、その度抗生物質と感冒薬を飲んで家で寝ていた。3年か4年の夏休み、心配した母が入れて、水泳教室に通った。泳げるようになり、風邪をひかなくなった。 顔色はいつも病人のように青白く(これは父譲り)、汗をかかない子だった。 感情の起伏も強くなかったのだろうか、泣くということに縁がなかった。 勉強が得意で、図工が好きで、体育が大の苦手だった。学級委員をよくしていた、いわゆる秀才タイプの子供だった。 この頃アトピーはどうだったのだろう。さ程困った記憶もない。冬期「おせなかかゆい」と言って母に掻いてもらった程度である。 ただ、水泳教室に通った直後こそ、泳ぎが楽しくなってプールに通いはしたが、水に入るとしみて「痛い」という思いは、人には言わなかったがずっとあった。海水浴に至っては、塩水がことさらしみて、つらかったという記憶しかない。 (水泳は全身運動でアトピーや喘息によいとよく勧められる。アトピーの海水浴療法も有名だ。これには苦々しい思いを禁じ得ない。 痛みをこらえながら泳ぐつらさは、それを持つものにしかわからないだろう。無邪気にプールや海を楽しめる普通の人を、どれ程羨んでも足りない。死ぬまで抜けだせない思いだ。)
中学生: 電車で1時間超の都内の女子校に通うことになった。 言葉遣いから違う都会の良家の子女の世界はカルチャーショックで、始めは馴染めるかと思った。 若さゆえか、満員電車も早起きもものともせず、愚かにも気分のままに夜更かしをした。よく遅刻をし、朝方は下痢ぎみになっていた。 個室を与えられ、思春期の身勝手さで、鍵をかけ閉じこもった。畳にカーペット敷きの部屋だったが、ろくに掃除もしなかった。(よく平気だったものだ。) クラブも机でする趣味のものに入り、休日も含めて運動はしなくなった。下肢などは太めになり、それが定着した。 中1からアトピーが明らかとなる。中2の頃が一番ひどく、帰宅して制服を脱ぐと体中の皮膚を掻いて落ちた落屑を集めるのが日課だった。ステロイド外用剤をつけたりつけなかったりで、その内部分的になっていた。 高校生: 同じ学校の高校へ。同じような生活。日曜日にテニスを始めたが、運動神経が鈍く同年代の仲間もおらず続かなかった。結局文科系のクラブを始め好きなことをして楽しく過ごす。 嫌いなものでも食べるべきと分かってきて、お弁当もほぼ食べきるくらいになっていたが、遅さは相変わらずで、食べていると午後の予鈴が鳴った。 この頃の写真を見ると、いくらかふっくら。猫背が目立つ。 アトピーは頭・頚・体四肢の間擦部などに部分的。ひどくなるとステロイドを塗った。修学旅行などで友人に夜掻いていたことを指摘されることはあったが、旅行に不安を感じるほどのことはなかった。 大学生: 医学部に入学。専門課程の4年余は自転車で通える近くに下宿となる。 一人暮らしとなると怪しくなるのが食事だが、3・4年の頃は目新しさでいろいろ作った。5・6年の頃は、クラブなどの後、友人と定食などを食べることが多くなった。 テニス部に入り、6年を通じてしっかり運動することになる。盛夏も真冬もコートに立った。(今思えば夢のような日々である。) アトピーは、肘のきめの荒さ硬さなど、なくなることはなかったし、旅行で夜ぼりぼり掻いていたとも言われたが、概して良好。 運動する時も、汗をかいてアトピーの所が少し痒くなることは無論あったが、プレイへの集中が途切れる程のものではなかった。 ときどきステロイドをつけていたのだろうが、それもあまり記憶にない。 研修医: 大学病院の皮膚科へ入局。知らないことばかりでとにかく忙しい。しかし必要なことを学んでいる毎日は楽しかった。当直や深夜の帰宅。食事は店屋物と外食となり荒れた。 仕事上の必要から自家用車を購入。これを境にどこへ行くにも自転車から車での移動となる。テニスもほとんどしなくなり、足の衰えと運動不足の第一歩が始まった。 一方で、大学後期から吸い始めた煙草が、止められなくなっていた。 (こうした全てはやがて来る破局への序曲だったのだ。私は全く気付かないでいた。) アトピーは著変なし。 医師3年目: 田舎の関連病院へ出向。 仕事は充実していたが、責任は重く拘束が強く、親しい同僚や友はなく、前年に大事な友人を失っていたこともあって、心は空虚だった。 食事がおっくうで煙草でごまかすことが少なからずあった。 病院のテニスサークルで時々テニスができた。 この年度の終わりに、上まぶたがかさつきはじめた。それは、今までの体の湿疹のように少しステロイドをつけても、治らなかった。 医師4−7年目: 大学病院へ戻る。その後、他にも2つの病院に勤務した。 主体的に診療に関わる立場となり、夢中で働いた。仕事にどっぷりの日々。休日は寝ていることが多くなった。 煙草は欠かさなかった。 家に食べ物はなく、食事は朝はなし、昼は不規則、夜は外食という生活。 上まぶたに始まった湿疹は、その年の内に顔のあちこちに拡がった。 ステロイドを塗ると嘘のように綺麗になり、止めると2日から数日で以前よりひどく出る。その繰り返しに、驚き嫌気がさし、認識を改めざるを得なかった。 「このままこの薬を続けていたら、長期的にはどこまで悪化して行くかわからない。」 人為的に悪化させていくことの取り返しのつかなさを考えたら、ステロイドを断つしか選択肢はなかった。症状を抑えられないと知っている非ステロイド消炎外用剤で我慢する日々が始まった。 (経験者は実感されていると思うが、顔のアトピーは他の部位にない大変さがある。 露出せざるをえないので誰にでも一見してそれと分かってしまうし、顔は文字通りその人間の「顔」なので、気に留められ、場合によっては人物の判断にさえ影響する。 繰り返し「ひどいんじゃない」「どうした」と聞かれるのも悲しいし、写真がまた実に忠実にその腫れた顔を写し出す。 これは本来の私の顔ではないのだ(;_;)。) 朝起きるとまぶたが腫れ上がっていることが何度かあり、そんな時は皮膚科医の外来に出ずに済むものならと思った。深夜に顔が腫れてきたこともあった。 無理がよくないことは嫌でも分かったが、そんなことを言える状況ではなかった。 調子の悪い時頓用で抗ヒスタミン剤や抗アレルギー剤を飲んだ。 この頃には、ごくたまにするテニスで、汗をかくことが少しつらくなっていた。腫れぼったい顔がうっとうしく、体もプレイ後かなり痒くなった。 医師8-9年目: 結婚。転居。 大学を止め、民間病院に就職する。煙草は止めた。 間もなく妊娠し、そして出産。 この時新築の高層マンションに住んだのが、運命の選択だった。部屋は入るとニスのような臭いがし、日当たりが悪かった。初夏になっても、私は寒くて仕方がなかった。 仕事は週2回となり、ほとんど自宅にいた。 時間に余裕のある生活はありがたかったが、夫のテリトリーに来たため、自分の友人とは遠くて会えず、妊娠したためテニスをするわけにもいかず、病院職員の2−3の女性以外に新しい友人を作ることができなくて、孤独感はつのった。 料理はきちんとした。夫はだしから全てに手作りを要求し、外食も嫌いだった。夕食は和洋中何でも作ったし、肉魚と同量くらいの野菜のおかずは付けた。 とはいえ週に一回位は作る気になれず、外食を頼んだ。外出する休日は外で食べた。 それでもその反動で、一人の昼食はカップ麺やレトルトも多かった。朝はパンとコーヒーとヨーグルト。 妊娠経過は、終始吐き気が強かった。 中期に旅行した後むくみが出始め、身長が低いのに胎児は大きめで、妊娠後期には腹部が肺を圧迫して苦しく、満足な睡眠が取れなくなった。 そのためもあってかむくみはとてもひどくなり、尿蛋白も出るようになった。 元来低い血圧が基準値に達しなかったため、妊娠中毒症という診断には至らなかったが、それに準ずる状態だったと思う。 (体が小さいということは、大きい人よりいろいろな意味で体の予備能力が小さい−これもまた私の身体の弱点だと思った。) 弱い肌での授乳は、乳首周辺の湿疹の出現・悪化が必発と案じられたが、夫を筆頭に母乳信仰の強さは妊娠中の私の憂鬱の種となった。 幸か不幸か母乳はろくに出ず、授乳は出産後のごく一時期で終わった。 出産後間もなく復職したのだが、職場で生じた問題の影響で、その後退職を余儀なくされた。 再就職が思いのほか困難を極め、常勤は駄目という夫や、遠方への通勤や時間外勤務を妨げる子供へ、責任を果たさなければならない結婚生活というものの重さを感じた。 この一連のトラブルは私にとって、ジェンダーに直面する大きな機会となり、相当なストレスとなった。 炊事・掃除で、手の湿疹には切れ間がなくなった。 顔はかさつき・赤く腫れることを繰り返していたが、少しずつその頻度程度は減っているようだった。 妊娠中期に股部から痒い発疹が始まり、後期には腹部全体に拡がった。妊娠に伴う一時的な症状と考え、最弱ランクのステロイド外用剤を1日1回付けてしのいだ。 そのステロイドは出産で腹部の発疹が治まるとともに止められた。 ところが、その後以前から続いていた頚部のかさつきと色素沈着が急に(2カ月程で)強くなった。 さらに今までほとんどなかった腕の湿疹ができはじめ、強クラスのステロイド外用剤をつけても治らなかった。 夏で汗をかいた所から、湿疹はどんどん増えて拡がり、産後8ヶ月程の間に体中に拡がってしまった。 (この悪化は、上記の退職の時期に一致している。) 長い長い、闘病生活の、幕開けであった。
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