家の南側に、集合住宅(マンション)建築計画がもちあがった。
古い公営住宅跡(あと)が、放置されていた場所。
いつか代わりの物が建つだろうとは思っていた。
いつまでも空き地なのは、内部や周りが荒れがちで困っていたから、
人の手が入るのはいいことなんだろう。
けれど、建つのは100戸規模の大型高層建築。
4階建ての駐車場も併設される。
そんな高いビルは、当然広く周囲を日陰にしてしまう。
なのにビル自身の屋上には、太陽光パネルが燦然と輝く。
建築容積も駐車場も、法律の許す限度ぎりぎりを狙って作られる。
余裕をもった造りなど、はなから業者の頭にはない。
「事業だから、縮小はありえない」と言う。
彼らが造りたいのは、売り物。でもそれは、人のすみかではないのか。
建築許可を出す、行政の顔は見えない。
許可を得る検討に関われるのは、当事者たる業者と行政だけ。
周辺住民にできるのは、意見書を出すとか、
説明会実施を要望するとか、
政治家個人に働きかけるとかいった間接的な方法しかない。
ようやく説明会が開催されても、
そのときには業者と行政の合意は、既成事実となっている。
確実に開発の影響を受ける関係者なのに、
決定をくつがえす権利を、住民は持たない。
そうしてできた施設の利用者が得られるのは、
あくまでも業者の考えで造った、お仕着せの品だ。
流行りのアピールポイントは確かにおさえてあるだろうけど、
「良く見える」物と、実際に使って良いと感じられる物とは、違う。
高額を払う顧客ですら、カスタマイズもままならない。
「開発は、非常にしばしば、民を置き去りにしてなされる」
という不条理。
我が事となってみてはじめて気付く、大いなる矛盾。
無尽蔵に勧められる開発は、暴力だ。
首都圏の電気をまかなうための原発の震災で、
福島の人たちの人生を壊したのはついこの間のこと。
今は、代わりの多くを火力発電でまかなっているが、
その燃料の石油もまた、世界の限られた資源である。
電気だけではない。
建築物の材料や車のガソリンともなる、石油。
雨水だのみの、水も。
地球上の資源は、みな有限。
身近な問題としては、
下水道、交通、学校、病院などといった、地域のインフラが、
居住住民の急激な増加で、ひっ迫する。
大きく見れば、
地球温暖化を促進し、洪水などの大災害が増える。
身の程を知れ。
地球上の私たちみなが、節度を持った行動をしなければ、
私たちの居住環境は悪化し、
地球の寿命が短くなる。
他人事ではないのだ。
建てるなとは言わない。開発するなとは言わない。
しかしそこに、人の技(わざ)としての人道的配慮を見たい。
その開発の計画が、内容が、規模が、本当に必要か?
制作者の見栄ではなく、利用者に恩恵を与えるものとなっているか?
生じる変化が、周囲に与える影響をわかっているか?
代わりに失われるものに、想像力が及んでいるだろうか?
開発は、人のためだ。
たとえ先立つ物が金だといっても、
人のためでない、金のための開発に、未来はない。