病への恐怖



人は病を恐れる。
「病が深刻」と診断されることを怖れる。
それが、できる治療の遅れや不足につながらなければいいと思う。

がんの可能性は五分五分と言われたのを大丈夫と捉え、後日がんが明らかになって大きな手術をしてから、もっといい治療法が見つけられたのでは、 と後悔している人がいた。
この薬で治らないなら、手術しなければならない病気(がん)の可能性があるから必ず来るよう言われた人が次に来たのは、1年半余の後だった。

病気には、治せるものと治せないものがある。
治すまではいけなくても、改善や制御ができるものも。
それはその時代の医学レベルに応じて、刻々と移り変わる。

治せる、改善できる、制御できるものなら、治療を受ける利得がある。
受ければより良い健康を手に入れ、より良い人生が送れるだろう。
恐れがじゃまをして、その機会を逃すのはもったいない。

がんではないかと心配して病院を受診なさる方は大勢いる。
がんにならない良性のものであるなら、医師ははっきりとそう言う。
五分五分と言われたのは、まだはっきり断定できる段階でないだけで、悪性の疑いが十分あることを意味する。

医師から言えば、その人は、指示されたであろう経過観察に必ず行くべきであった。
そうしていれば、何も血眼(ちまなこ)になって名医を探しまわらなくても、早期発見で小規模な治療で済んでいただろう。
さらに言えば、がんになった要因の不摂生を控えていれば、ならずにさえ済んでいたかもしれない。

治療開始の遅れを招いた自分自身を顧みず、病気の進行度に相応した大変な治療をみごとにやり果(おお)せた医師たちを技量不足のように言われては、彼らの浮かぶ瀬がない。

それでも誰しも自分のこととなれば、残り五分を信じたくなってしまうのが人情なのだろう。

再受診まで1年半以上かかってしまった人の心情も、十分推察できる。
毎日のように患部を眺めながら、少し小さくなったのではないかな、いつか治るのではないかなと考えて踏ん切りがつかなかったのだろう。

アレルギーが重症の人にも、似たような面があるように思う。
当然ながら、重症の人は改善するまでに非常に時間がかかったり、いろいろな努力をしてもなかなか改善しなかったりする。

だが、医師にかかったからにはすぐに成果がみられないとおかしい、と考える人たちがいる。
どんなに長い長いことかけて作ってきたアレルギー体質であっても、適切な医療を見つけられさえすれば、解決への道筋がただちに見通せるようになるはずだと。

困難な病状に対しては、医師も患者もそれぞれに、気の長い相当な努力が必要となる。
アレルギーのためさまざまなものを避けなければならない人たちがとても辛い思いをしているのをいつも間近でみているが、そうした根深い体質を、簡単に雲散霧消(うんさんむしょう)させることはできない。

そんな中でのこうした「早く快(よ)くして」という叫びには、病気への恐れが深く関わっているように感じる。
「私はそこまで(長いことかかるほど)ひどくないはず」という思いこそすなわち、「このままいつまでも治らなかったらどうしよう」という恐怖の裏返しに他ならない。

治療をする側として、恐れを飼い馴らす重要性を思う。
病気が怖いのは当然、だがただ怖れていても、事は進まない。
恐がって目を背けようとも、消せない現実がそこにある。

病気のありのままを見つめ、受け止めなければならない。
恐れを膨らませ意気消沈して、意欲を失えば希望が潰(つい)えるし、
恐れから病状を過小評価して、無理を通そうとすれば破綻をきたす。

現状の中でできることをしていき、黙々と励む。
そうして良くなるまであきらめないのが、私たちにできることなのだろう。

2016.8.  

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