年が暮れる。
社会生活を営むということは、やはり意義深い。
毎日一日中を家で過ごしていた時と比べ、今私はずっと沢山の人と、日々出会い言葉を交わすようになった。
出会い、そして別れ、その繰り返し。
そんなふうに人生は過ぎていくのだ、ということを、今また思い出している。
患者の方々との出会い。
ほんの一時で、一面的ではあるけれど、それらもまた出会いに他ならないのだと思う。
彼らの人生の僅かな断片にしか、私は関わらない。
その断片は、あまり他人には見せることのない、陰の部分である。
悲しみや不安の影を連れて、彼らは診察室を訪れる。
そんな彼らの影を少しでもほどき、解放して、お帰り下さることができればいい、と思う。
そして病が少しずつ快癒し、ここを訪れなくていいようになって下さることを、私は願っている。
ここでは、別れは、望ましい。
「今頃はどうしておいでか。元気な生活を続けていらっしゃるだろうか。」
と想像できるようになることが、私の幸せだ。
また、自分個人の生活の中や、仕事での同士として、出会う方々もいる。
そんな方々とは、大概もう少し深い、もしくは長い、関わり合いを持つ。
それでも、自分だったり相手だったりの、職場が、生活の場が、生活の様式が変わる度に、やはり別れは訪れる。
年賀状を書くために、旧知のリストをめくるこの時期。
かつてひと時親しく心を通わせ共に時を過ごしたのに、今では会うことさえなくなってしまった人の、なんと多いことかと思う。
結局のところ、私たちが長いこと一緒に生きていくことができる人といったら、家族くらいのものなのかもしれない。
私たちは皆、生きている限り、生活を営む。
仕事をし、勉強をし、家事をし、子供や老人の面倒をみ、時に余暇を楽しむ。
そうした全てに日々の時間を過ごし、そのための自分の居場所に、居続けなければならない。
大好きだった友人とも、いつしか時が来れば離れて暮らすようになる。
淋しいけれども、それは、お互いが自分の生活を生き抜いていることの証左でもある。
だとすれば、やはりあるべき結果、望ましい結末なのであろう。
沢山の出会いと沢山の別れを繰り返し、1年が終わる。
美しく別れられた人ばかりではない、すれ違うばかりだった人も、言葉や行動を尽くすことができずに思いの残る人もいる。
それでも、私も相手も完全ではないのだから、そうした不完全な別れも、それはそれでいいのだろう。
その人たちと、また会えるかもしれない、あるいはもう会えないのかもしれない。
どちらであるにしても、「幸せに、どうぞ幸せに。」と願う。
命ある限り、出会えた喜びを私は忘れない。
いつか何かの折に触れ、また思い出し、「あの人は今頃どうしていることだろう。」と想い描きつつ、遠い空を望むだろう。
あるいは久し振りに消息を聞き、また会って話す機会を得て、変化に驚き、面影を懐かしみ、そうして結局はその生き方に、「あなたらしいね。」と微笑むことだろう。
私は私の場所で生きていく。
願わくば、素晴らしい多くの人たちと、来年もまた、素敵な接点を持つことができますように。
2007.12