疲れると痒くなる




. 1日の仕事の悪戦苦闘を終え、「さあ、あとは夕食を食べ、くつろげごう」となったとき、
人目の中きちんとしていなければならない社会空間から放免され、寒さや暑さに耐えながら帰路をたどり、ようやく安全な家に入ってほっとした後。
・・一気に痒みが押し寄せる。
アトピー患者ならよく体験することだろう。

手荒れ以外に、長引く湿疹はまったくなくなっている現在の私にも、こうしたエピソードはときに起こる。
なんだか痒いぞとその場所を見たり、触れたりすると、ところどころに、赤みはほとんどないが小さくボコボコ膨らむ蕁麻疹のようなものがたくさん出現していて、甚だ痒い。
自分の肌ながら、こうしたいくつもの凸凹を見ていると、気持ちの悪いものだと思わざるを得ない。

そんなときの私の習慣は、その日を思い返すこと。
「今日は何をした・・何を体に入れた?」と、皮疹の出現原因を探ろうと考える。
理由がわかれば、気持ちが落ち着くし、対策が立てられ、「またなったらどうしよう」という不安も減るというものだ。


「ああ、そうだ、今日は珍しくあれを食べた」とすぐさま思い当たることもある。
それは自分の反応するアレルゲンかもしれないし、アレルギーのような症状を出す仮性アレルゲンを含んだ野菜・魚などの食物だったり、お酒を飲んだ・辛い物を食べたといった症状促進要因かもしれない。
飲食物だけでなく、環境要因が原因では、と思い当たることもある。
「花粉の季節だ」とか「カビ臭い所に行った」とか「手袋で作業した」とか「乾燥する季節で皮膚がかさかさだから」とか、とにかくいろいろなことが思い浮かぶ。

あれこれ思考を巡らしていると、「アレルゲン」と「それ以外の悪化要因」がだんだんと一緒くたになってくる。
アレルギーの原因は、イコールアレルゲンであると一般的には考えがちだが、その人の症状を悪化させうるのは実は、アレルギーのある特異的アレルゲンだけではない。
そもそも「アレルゲン」という言葉は、変じた作用を起こすその原因物質、という意味を内包する。
その意味では、アレルゲンだろうとそれ以外だろうと、「アレルギー」という通常と違う反応を表出させる、原因となっている物質には違いない。
しかし一般的に医療でアレルゲンと言うとき、それはその個人の体内免疫機構に記憶されていて、抗体を作る免疫反応を生じさせる「抗原」のことである。
たとえば高温や飲酒のように、血管を開いてヒスタミンなどの起痒物質が皮下にしみ出しやすくしたり、皮膚バリア機能障害のように、たくさんのアレルゲンの侵入を許す結果としてアレルギー反応を強く出させたりするような要因は、アレルゲンではない。

ひとつの要因が、両方の影響を及ぼしうることもある。
たとえば、ある魚を食べて蕁麻疹が出たとしても、それは魚に付いていたアニサキスに対するアレルギー症状かも、少し古くなって魚の中に増えていた仮性アレルゲンのヒスタミンによるものかもしれない。
ゴム手袋をしていて症状が出たとしても、ゴム成分ラテックスに対するアレルギーだけでなく、手袋の中の高温湿潤環境が、原因もしくは促進要因になったということもありうるだろう。
前者ならほんとうのアレルゲン、後者ならそれ以外。今回の原因はどっちか、あるいはどっちも?

「真性のアレルゲンでないか」と疑われるものに対して、病院ではアレルギー性を見る検査が考慮される。
だから、どちらかわからなくても、原因の候補を挙げておくことは無駄ではない。
検査できるようなものでなくても、それを回避することで症状が出ないようになるのならば、それもまたひとつの立派な検査と言ってもいいだろう。
そうした過程を経て、アレルギー持ちであっても平和な日々を手にすることが可能であると考える。

また、アレルゲンではない、それ以外の悪化要因に属するものとしては、刺激性のあるものに触る/摂る、温まる、精神的にストレスがかかる、などが言われている。
そんな何かが思いあたれば、それをできるだけ避けられる生活を構築すればよい。


・・だが最近、あれこれ考えても、何にも思い当たらないことがある。
この頃は年齢のせいか、滅多に暴飲暴食もしないし、突飛なこともしない。
いつも通りの仕事の1日を過ごしただけである。
なのにどうして、今日に限ってこんなに痒く、ボコボコになるのだろう?

そしてあるとき、思いついた。
これは、この原因は、「疲れ」だな、と。

アレルゲンではない、それ以外の方の非常に大きい括(くく)り、そしてあまり注目されていないもの。
しかし、とても根源的なもの、とも言える。

いつも通りの「仕事の」1日というところがミソだった。
こうしたひどい痒みは、ただ休んでいた休日の夜には起きない。
仕事が終わった夜に、「疲れた〜」と感じるときに起きる。
なるほど仕事というものは、心身を使い、責任を伴い、とても疲れるものである。

「なんだ、精神的ストレスじゃない、その日は何かイヤなことがあったんだね」という話ではない。
ストレスには、よく言われる心理的なもの以外に、より広い別義がある。
生物学的な意味でのストレスは、精神だけでなく肉体へも負荷をかける、あらゆる外的刺激作用のこと。
ただ通常の任務を、しかるべく順当に終えるだけの過程にも、常にストレスはかかっている。
失敗なく過ごせた順調な日だろうと、周囲との衝突もなく円満に過ごした日であろうとも。

生体はそれに対して、主に以下2系統で反応するという。
自律神経系は、すばやく交感神経を活性化し、闘争もしくは逃走という対処のために体を適合させる。
そして脳の視床下部から副腎につながる系統では、副腎皮質ステロイドホルモンであるコルチゾールなどが、多く分泌され、ストレス耐性を高める。

どちらの系統でも、免疫系には抑制的に働く方向となり、その間、免疫系の対応力は弱化すると考えられる。
それは短期の、一時的弱化で済むのだろうか。
実は、ストレスへの対処がひと通り終わった後でも、色濃く影響が残る、ということが、現実にはよく起きているのではないだろうか。

ストレスは1回きりではない、仕事をしているたった1日の間にも、大小さまざまに何度も押し寄せる。
端的に言えば、人付き合いも含めすべての作業が、ストレッサーすなわちストレス源である、と言えなくもない。
上手くいかなければ困ったことになるのだから、誰もが無意識のうちにもそうならないようにといつでも頑張っているはずだ。

闘争や逃走の後には、息が切れてハアハアするのが当たり前。
であれば、1日働いた後に、疲れていないわけがない。
大変な仕事をしっかり努め、大過なく乗り切ったとき、気持ちは安寧に満たされているかもしれないが、その重労働を終えた体は、実は青息吐息でいるのではないだろうか。
そんなとき、弱った免疫系が、アレルギーの顕症化という形で、悲鳴を上げるのではないだろうか。

されば、この疲労症状への最も有効な処方箋は、十分な睡眠に他ならない。
できるだけ早く寝床に入り、長時間ぐっすり眠れば、翌朝の目覚めはすっきりとして、蕁麻疹も大半が退く。
また、新しい1日の挑戦に立ち向かう準備完了、というわけだ。
昼は活動し行動、夜は眠り休息する、という生き物のこの仕組み、まことに見事と言う他ない。


高額医療の自己負担額を抑えるための高額療養費制度の、自己負担限度額引き上げが、癌や難病の患者の方たちの生活や命に関わるものと反対されている。
今世紀になってからの技術の進歩で、単価が数万円以上という高額薬剤が、続々保険適応に入り、それらの適応症も増え続ける中にあって、制度の見直しは、来るべきものが来たと言えるだろう。
ヘパリン類似物質保湿剤などの頻用薬で、より高額な先発品を希望する場合は自己負担を増やしたり、抗アレルギー薬など指導の元、患者が自分で判断して扱えるような一般的な医療用薬の、市販薬への移行を進めたり、国もあの手この手で、保険医療を圧迫する薬剤費の増大を抑えようとしている。
しかしこうした高度高額薬剤は、他の今までの薬とは単価が2桁以上違っており、単純に考えて、およそ100回分の抗アレルギー薬を市販品で我慢してもらい、やっと高額注射の1回分が賄えるくらい、という計算。
こういうのを、「焼け石に水」と言わないか。

考えたくないことかもしれないが、近い将来どうしてもどこかの時点で、高額薬剤自体の保険負担金額に切り込まなければ、やっていけなくなるのでは、と私は考えている。さもなければきっと、公的保険の財政破綻という、さらに恐ろしい事態が現実になるだろう。

それゆえ私は、ひとりの医師として、高額製剤に極力頼らない治療を目指すべきだと思う。
製薬会社が薬の収支の赤字に苦しんだり生産が難しくなったりするリスク以上に、世界に冠たる日本の公的医療保険制度の破綻、という致命的な危機を、決して招いてはいけない。

どうしても必要なときにこうした高額薬が使えるように、どうしてもでないときは使わないようにすべきではないか。
そのために患者は、無駄に自分の病状を悪くしないよう、心掛けるべきなのだと思う。
睡眠で治るなら、費用は只(ただ)、0円である。
滋養を摂り、摂生し、無理をせず、自分の体を大切に生きていきたいものである。


2025.2  

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