Evidence-Based Medicineの誤用という罠






Evidence-Based Medicine(EBM)という言葉をお聞きになったことがあるだろうか。

医学の分野に於ける問題解決の一法で、1991年にその呼称が誕生した。
近年とみにもてはやされている観のある言葉である。

最近、講演と本でこれについて学ぶ機会があり、自分の今までの理解が誤っていたことを知った。それについて書いてみたい。


EBMはよく、「根拠(あるいは科学的根拠)に基づく医療」と訳される。

さあどうだろう、この言葉をそのまま鵜呑みにするように読むと、
『科学的に有効と証明された医療(のみ)を、患者に対して行おう』
という主張なのだと、思いたくはならないだろうか。

私はそう思っていた。
そして、日常医学関係の雑誌などでしばしばその言葉を目にする際も、そういう意味の記述と受け止められることが殆どだった。


そして私はその言葉を見るたび、いつも強い疑問を感じていたのだ。

「科学的に証明されていて誰が見ても問題のない事実なんて、いったい医師がどれ程手中に収めているというのだろう?。
少なくとも、治療に難渋するような慢性疾患に於いては、それがないからこそ、あらゆる試行錯誤と混乱を止めることができないのでいるではないだろうか?−。」と。


ところがEVMとは、そんな底の浅い主張などではなかったのである。

これは、そんな医学の限界を明確に自覚した医師たちが、その「不確実性」の中でも、個々の患者にできる限りの客観的・合理的な医療を提供したい、と願ったことにより生み出された、一つの方法論なのである。


EBMとは、
診療現場での方針決定や疑問解決の際に、理論や医師の経験だけを拠り所とするのでなく、臨床疫学研究というEvidenceを活用することで、患者にとってより良い結論を導き出そう
というものである。

そして、
そのEvidenceは、科学的に信頼性・妥当性を吟味した上で用いられねばならず、患者に適応する際にも、盲従するのではなく、医師の臨床判断と患者の意向をあわせて、総合的に結論を出す。
という考え方なのである。

以下により詳しく書いていく。


まず、科学的根拠、という日本語訳が、非常に誤解を招きやすいものとなっている。

ここでいう「科学的」の意味するところは、「科学的な実験の結果」ということではなく、「科学的に臨床応用ができることが証明されているEvidence」なのだそうである。

EBMでいうEvidenceとは、化学実験や動物実験のことを言うのではなく、
「人間(患者)を対象とし、その病気の経過をみた臨床疫学的研究・調査」のみ
のことを言う。


では、その「臨床疫学研究」とは何なのか。

それは、例えばある病気である治療をした人たちとしない人たちが、何人治ったか治らなかったかとか、何か病気の原因になると思われる要因を持っている人たちといない人たちがその後実際に何人病気になるかならないかとか、ある病気の人たちとそうでない人たちが、過去にどんな危険因子にさらされていたかいないかとかいったことを調べる研究である。


すなわちこれは、発症機序を探っていくような従来の理論的アプローチとは対称的な、実際に患者に何が起こっているかという現象面からのアプローチである。

現実の病気の経過は、理論の通りに進まないことも少なくない。
今までに解明された生命・病気についての科学的事実や理論は、完全ではないし、人間の体は、非常に多数の因子が絡み合った複合体であって医学的に多面性を持ったものだからである。

「臨床疫学研究」というEvidenceは、そういった、理論的アプローチの「不確実性」を補ってくれる、追加の判断材料になるのである。


また、一人の医師にできる経験は限られてもいる。
「臨床疫学研究」は、医師が経験則で判断することの「不確実性」をも、補ってくれるものとなる。


さらに、患者である人間は、同時に社会的存在でもあり、ひとりひとりが異なる価値観を持つ。
それを尊重し、病気の治療に於いても、誰にでも一律に同じやり方を当てはめるのではない、テーラーメイド(オーダーメイド)医療が、EBMの目指す所なのである。

Evidenceは、その中で、より客観的合理的な判断を下すための補助となる。


それではなぜ今、EBMなのか。

それは、技術面の発展が、EBMの実行を可能にしたからでもある。
具体的には、「臨床疫学(統計処理)の技術の成熟」と、「IT(情報テクノロジー)の技術発展・普及」である。

前者が、信頼性の高い臨床研究調査を行なうことを可能にし、後者が、膨大な文献情報から必要なものを効率的に取り出すことを可能にした。
これによって医師は、「臨床疫学研究」というEvidenceを手に入れることができるようになったのである。


さて、そうはいっても、実際には信頼度の高い大規模な臨床研究は、そうそう行なわれているものではない。
信頼性の低い研究しかなかったり、或いはそれさえもないということも多い。
技術的・倫理的に研究が行い得ない場合も、多々ある。

そしてまた、たとえ良い研究があったとしても、それは統計という確率論であるから、例えば90%の人が治ったという結果は、10%の人は治らなかったという結果を含んでいることを、忘れることはできない。

このように、Evidence自体にも、おのずとさまざまな意味での限界がある。


結論づけると、
EBMに於けるEvidenceとは、「不確実」な中で少しでもより客観的合理的安全な判断を、患者のためにしたいという、医師の努力が拾い上げた「ひとつの判断材料」
なのであって、決して、「絶対的な結論」ではない
のだ。


・・ややこしい話に辟易しておられる読者の顔が目に浮かびます。
すみません(^^;)。


さて、それでは何だって、こんなどうでもいいような専門的な話をここに書いているのか?ー。
それは、私がしていたような誤解が思いのほか世にはびこっていて、それが医療を歪めているのではないか、という懸念を、強く感じるからなのである。


その懸念のひとつは、初めの方に書いたように、EBMという言葉だけを転用して、「科学的治療のみが正当、他は全て誤り」としようとする、一部(?)の医師に見られる風潮である。


そしてもうひとつの懸念は、「EBM」に繋がる、「Evidenceに基づくガイドライン」についてのものである。


「Evidenceに基づくガイドライン」とは、個々の医師が、日常の診療の中でEVMを実践することは、実際問題として時間的・労力的に難しいだろうと考え、その代用になるものとして、専門家が最新のEvidenceをもとに作る診療指針である。


であるなら、この「ガイドライン」もまた、どの程度信頼性の高いEvidenceに基づいているかということによって、「ガイドライン」自体の信頼度の評価が、左右されるものなのではないだろうか?。
「ガイドライン」を見る時、こういう視点が必要なのだと思う。

もし、充分なEvidenceの検索がなされていなかったり、Evidenceがなかったりで、その「ガイドライン」が、Evidenceに基づくというより、作成に携わった専門家の見解の集合体でしかないものになってしまっているとしたら・・?。

それは、「Evidenceに基づくガイドライン」とは、言えないだろう。


このような、「Evidenceに充分基づいていないガイドライン」は、危険をはらんでいると思われる。
それは、専門家の見解の押し付けにすぎないものになってしまう可能性がある、と思うからである。


もし、最新のEvidenceという情報を一般の医師に伝える、という目的にかなわないものなら、その「ガイドライン」はいったい何の目的のためにあるのだろう?−。

そこには異なる目的が生じてしまうかもしれない。
「Evidence」や「ガイドライン」という言葉の持つ、客観的合理的なもの、というイメージだけが、利用されてしまう可能性がある。


そして、たとえ信頼性の高いEvidenceに基づいた「ガイドライン」であっても、それはどの患者にも必ずそのまま適応すべき結論や決定事項なのではなく、あくまで「標準」を示した指針に過ぎないものなのだ、という認識が、非常に重要である。

個々の患者の方針決定は、「ガイドライン」を知った上で、専門的能力を持った医師と、自分なりの価値観を持った患者が、協同作業で決めていくべきものである。
その、個々の患者の最善の選択を助けるということこそが、EBMと「Evidenceに基づいたガイドライン」の、目的の本質なのである。



さて、現実はどうであるか。

実際にアメリカでは、保険会社が、「ガイドライン」に無い検査・治療を保険適応として認めない、という事態が起きており、結果的に医療の質の低下を招いているそうである。
これはまさに、「ガイドライン」を悪用して、「診療規制」の目的に転用している例である。

ひるがえって、我が国で作られている「ガイドライン」はどうであろう。

厚生労働省や各学会により、近年、診療「ガイドライン」を作成する動きが盛んとなっているようである。
そのそれぞれがどの程度、「Evidenceに基づくガイドライン」として作られているのだろうか。

信頼性の高い最新のEvienceに基づいていると言えるものになっているだろうか。
そして、もしやその作成の目的に、診療統制患者管理の色彩を持っていたりはしないだろうか−?。


「ガイドライン」が、専門家の考える「標準」を押し付けるためのものになってしまってはならないと思う。


「Evidence」や「ガイドライン」を情報として活用した上で、臨床技能を持った医師と、独自の価値観を持つ患者との協同作業で、テーラーメイド医療を形作っていく。
それが「EBM」の、正しい用い方である。





 私が学んだ資料:
EVMの正しい理解のために 名郷直樹 日本皮膚科学会研修講習会 2005.1.8
EVMの正しい理解と実践 Q&A 能登 洋 著 羊土社 2003
EVM皮膚科 真鍋 求 宮地良樹 編 文光堂 2001





  <追記>

私が、「日本皮膚科学会アトピー性皮膚炎治療ガイドライン」を念頭に置いてこの文章を書いていることは、賢明な読者諸氏はとうにお気付きのことと思う。
さらに踏み込んで敢えて具体的にこれについて書くなら、私の見解は次のようである。


1)外用ステロイド治療を用いた患者と用いなかった患者の、「長期」に渡る予後を比較したEvidenceがないのなら、ガイドラインは、ステロイドを用いないアトピー性皮膚炎治療を、「不適当」とすることはできないだろう。

−ただし、ここで言う「長期」という言葉は、少なくとも3年から5年以上後の、予後のことである。
「短期」の使用結果では、ステロイドを使用した方が皮膚はきれいになる、というEvidenceが豊富にあることを無論私は承知している。

−また、この文の「ステロイド」の言葉を「タクロリムス(商品名プロトピック)」に置き換えても、同様だと思う。


2)「ガイドライン」が、個々の医師の裁量権を侵害したり、患者のヒューマンファクターを損ねるような、管理統制の手段になってしまってはならない、と、強く思い願うものである。

「EBM」も「ガイドライン」も、患者のために存在するものであって、医師のためではないことは、論を待たない。

2005.1.  





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