人は病む。
人は死すべきもの。
どれほど豊かでも、どんなに健康でも、いつかそのときは来る。
永遠に壊れない機械がないように。
医者は命と対峙(たいじ)する。
その肉体をより良く長らえさせることを使命とする。
すなわち病少なく、苦痛なく、快適に。
性能を保ったまま長持ちさせること。
そうするのは何のため?
だって、それが仕事だから。
なぜなら、命は尊いものだから。
命の意味は、単に肉体の輝きにとどまらない。
生きている間になした事々を、誰もがこの世に遺(のこ)していく。
とすれば生命を守ることはそのまま、その人の人生を支えること。
なんと責任重き業(わざ)であるのだろう。
ちょうど仕立て屋があつらえるスーツのように、
医療も患者の方1人1人の体と需要にぴったりと合わせる、
病状だけでなく、そんな要望や社会的状況まで考慮した医療を、
テーラーメイド(tailor-made)の医療と言う。
医師として患者の方との経験を重ねるにつけ、
また文明の発達により選択肢が増え、個人の価値観が多様化するにつれ、
治療をその方の人生に適合させることの重要性をひしひしと感じる。
いかに洒落(しゃれ)たスーツであろうと、そぐわないものでは使えないのだ。
誰しもさまざまな事情を抱えている。
病人に必要な世話がまかなえなかったり、
頼るべき人に素直に頼れない状況だったり、
本人と周囲の希望が衝突したり、
曲げられない信念があったり。
治療方針を決めることは、生き方を決めることでもある。
結論はすぐに出ないとしても、
それでも落ち着いて時間をかけ、
実現可能なより良い選択肢を探っていくしかない。
とはいえ病は、実に苦しいもの。
一刻も早く治ってくれ、と思うのが人情。
簡単には治らないという事態が明白になったとき、
人は「何で自分がこんな目に!」という激しい怒りにかられる。
それもまた辛い必須の通過儀礼である。
キューブラー・ロスが解析している。
彼女の言っているのは死を受け入れる段階だが、
病の受容もまた、同じような段階を経るのだと思う。
ひどい病気にかかれば、戸惑い取り乱す。
いたって人間的な感情の動きに他ならない。
ただ大概の病気においてその死の受容と違うのは、
段階を通り過ぎた先に、未来への希望がありうるということである。
行き着いた絶望から再出発して、可能な道をまた一歩一歩進むしかない。
情報が専門家の占有だった時代は、すでに昔。
患者が医者に「お任せします」と言い、
医者が患者に「最善を尽くします」と返す、
どちらにとっても正解が1つで、
迷う必要のなかった時代は過去の幻影となった。
医師は、可能なあらゆる選択肢を考慮し、
患者の希望にそってそれを統合し形にすることを要求される。
同時に患者も、自分にとって実現可能な治療と経過の未来像を、
見定め受容する力がなくてはならない。
ないものねだりは禁物だ。
「永遠に健康に生かしてくれ」という望みが不可能なのだから、
その手前には必ず「治り難い」という荒野が広がる。
医者はその地平で働く生き物である。
「治り難い」の領域を少しでも狭めるために、日々格闘している。
同じ夢を成し遂げるべく、堅実な努力を惜しまない患者の方々と、
これからも出逢い続けられる日々を願う。