アトピー性皮膚炎を長年患っている方はよくご存知だろう。
症状には波があって、いいときと悪いときがある。
とても辛いのは、いったんすごく良くなっていたのにも関わらず、再び悪化の波が押し寄せたときだ。
多くの場合、何が原因ともわからず特定もできないまま、
状態は坂道を転げ落ちるように、あるいはじわじわと確実にひどくなる。
そして、そこから容易に抜け出せなくなる。
半年? 1年? それとももっと。
だから患者は、気安く新しいことをする気になれない。
何が悪化を呼ぶかわからないから、臆病にならざるを得ない。
例えば、化粧品などのサンプルをもらう。
普通の人は「得した」と喜ぶのだろう。
しかしアトピー肌の私には、嬉しいことだった試しがない。
大抵の場合、それは逆に地獄の入り口だったりする。
自分の肌に付けて試す、ということが、そもそもとても恐ろしい。
良くなるよりも悪くなる可能性の方が高いのだから。
それほどに、アトピーの肌というのものは敏感であり、脆弱である。
新しい物をスタートするときは、いつもドキドキする。
「これは私の肌を悪くしないだろうか?」と。
しかるに他人は、見るからにガサガサな私の肌に「良かれ」と思って何かと勧めてくる。
固辞するほどに、「使ってみればいいのに、何で?」と哀れまれる。
地獄の扉を開いて苦しむのは使わされた患者であり、サンプル提供者ではない。
いつだってそれらは、敢えて言うなら単なる流行りもの。
今、ブームが来ているというだけ。
それで良くなる保証など、どこにもありはしないのだ。
塗布剤に限らず、サプリメント、食べ物、飲み物、薬、
ありとあらゆる物がアトピーに良いと謳われる。
私の「今まで」の経過のところにも書いたが、あるお茶を飲んだときには、ひどい目にあった。
1杯飲んで間もなく、体中が痒く赤くなり、どうしようもなくなった。
また別のときは、ご馳走を食べているうちに痒みがふつふつと沸いてきて、場を辞さざるを得ないほどとなり、用意してくださった方に呆れられた。
動物は癒しをくれるとよく言うが、趣味にとに勧められ接しているうちアレルギーになってしまい、あるとき全身に蕁麻疹が出た。
アクの強い野菜を、「こうすると風味と栄養が残っておいしいよ」と生に近いこしらえで振る舞われた後、びっしりと蕁麻疹が出たこともある。
そこまで行かないと人は、「あなたにはこれは駄目なんだね」と認めてくれない。
しかし私にしたら、あらかじめ危険を察知したからこそ気が進まない旨を伝えている。
どうして、苦痛を負うまでわかってもらえないのだろう。
アレルゲンを1つ増やす前に、回避してもらうことがこうも難しいのだろう。
実際、過敏な体には、毎日がさながらロシアンルーレットだ。
どこでどんなハズレ弾に当たるかわからない。
いきおい、大丈夫とわかっている最小限の物しか使わない生活になっていく。
そのまま暮らしていきたいのに、人はなかなかそれを許してくれない。
「1回じゃわからない」と、飲んで痒くなったお茶をそれでも飲むよう言われたときは、ほんとうに辛かった。
不安を押し殺して数日使ったサンプルが一応大丈夫で、断りきれず本品を購入したら1/3も使わないうちに赤みが出始めたときは、とても悲しかった。
今思えば、使い続けるうちに感作(かんさ)されアレルギーになりうるのは当然のことなのに、当時はそう考える余裕がなかった。
悪化はすぐでなく、開始後、数日以上過ぎてから訪れることもある。
荒れた皮膚から繰り返し体内に入る物質は、ある時点で外敵と誤認され、免疫の攻撃対象となる可能性がある。
それがちょうどサンプルを使い終わり、製品を購入したばかりだったりするかもしれない。
販売者にとってはラッキー?、しかし患者にとっては泣くに泣けないアンラッキー。
そうした思い出の最たるものは、大学病院の皮膚科で働いていた頃にあった。
ある日先輩皮膚科医から呼び出された要件は、業者が持ってきたサンプルを「あなたアトピーだから使ってみて」だった。
愕然(がくぜん)とした。
そのときの先輩の頭には多分、私の肌がそれを使うことで良くなるか、それとも変わらないか、という結果くらいしかなかったろう。
「合わなければ止めればいい」程度にしか考えない。
悪くなって、そこから抜け出すのに何か月もかかるかもしれない、なんてことは想像もしない。
皮膚科医であってすら、それが普通の人の認識なのだとしみじみ思った。
別にその人たちに、わかってもらいたいのではない。
ただ、この自分の皮膚と折り合って生きていきたいだけ。
反応するものを減らす手立てを手に入れた今、それができると思える私がいる。
薬や治療法の流行に翻弄されることなくいたい。
そして賢い取捨選択を常にできる身でありたいと思う。
2022.8.