まったく恐ろしい世の中だ。
赤ちゃん整体で乳児の死者が出た。
その整体師は医学的知識をまったく持っていなかったのだろう。
少しでも人体解剖学をまともに学んでいる者なら、首を乱暴に扱うことの怖さを知らないはずがない。
ネットで見られる施術写真で、乳児たちは頭を掴まれて捻られ、首を激しく反らされたり、後ろ向きに近いほど横を向かされたりしている。
さながらホラー映画でも見ているようだ。
素人目に見ても「ありえない」姿勢。
それゆえ「恐い」と感じられる。
骨と骨をつなぐ関節には、本来(生理的に)動かすことができる範囲というものがあり、これを関節可動域と言う。
頭をまっすぐにした静止時の状態を0度として、
頸椎を反らす(伸展)運動の可動域は、およそ50度、
横を向く(回旋)運動では、およそ80〜90度。
写真で見る乳児らの画像は、この最大域をゆうに超えている。
つまりホラーに見えるのは、人間の体の本来の動きを逸脱しているからに他ならない。
そんな姿勢を(件の整体師が主張するように)乳児が自発的にとることなど、ありようはずもない。
いつ事故が起きてもおかしくない状態だった、と言わざるを得ないだろう。
残念ながら日本では、整体やカイロプラクティックは、法による規制を受けていない。
海外のカイロプラクターやオステオパスに相当する公的認定資格は日本にはない。
国家資格として、日本固有の柔道整復師という捻挫などの治療のできる資格や、あん摩マッサージ指圧師という資格があるが、それらがなければ整体院を開けないということもない。
医療資格がないと保険請求はできないが、自費で行う限りはなんの許可も認定も要らない。
人体の構造の基礎知識すらまったく持っていない者であっても、誰でもいつでも、施術師を名乗ることができてしまう。
規制がないのは、あるいは不思議と感じられるかもしれない。
だが、カイロプラクティックは主に手技であり、目に見える数字などで効果を示し、科学的に有効性を証明することが難しい。
また、テクニックを開発した人によって手技が異なり、どれが正当でどれがだめとも言えない。
国家認定の医療資格にしようとすれば、教育基準を決め、それに合致しないものはすべて否定することになる。
それを行うには余りにも、既存の整体・マッサージ・体操・指圧やつぼ刺激やもみ・カイロプラクティック・オステオパシーなど種々の療術が、日本全国の人々の生活の身近に染み通り普及してしまっている。
消費者は、安全の保証を国家に頼れない。
自分の体を預ける人は、自分の責任において選ぶしかない。
どうしたらいいだろうか。
上記のような国家資格保持の有無を確認するのも1つの方法だ。
日本で資格のないものだったら、本場で正統な課程を学んでいたりするかどうか。たとえばアメリカのカイロプラクティック大学を卒業して、ドクターオブカイロプラクティック(D.C.)の称号を得ているとか。少なくともかなりの情熱がないと、こうしたことはできない。
独学で人体の構造を勉強し考え続け、立派な整体師になっている人もいる。
しかし、これからの時代であれば、経済的にどうしても学校に行く手段がなかったというケースは考えにくく、医療の道を志したならどこかで医療資格を取得するか、人体解剖などの基礎医学も学ぶ民間資格の学校には行っているという経歴が妥当だろう。
そして、施術者のふるまいをしっかり観察して判断しよう。
患者もしくは顧客に健康になってもらいたいと思っているだろうか。
人体に対する畏敬の念を持っているか。
自分の未知のことに対するおそれを知っているか。
顧客の健康と幸福を願っていれば、その安全の確保に心を配るだろう。
人体の凄さを知っていれば、うかつな扱いはせず、独りよがりにもならない。
自分にできないことを痛感すればこそ、できることを増やそうと学び続けるものだ。
件の施術師のセミナーに出たが、赤ちゃんが嫌がり泣き続けているのにもかかわらず気にせず施術を続ける様子を見て、受けさせるのを止めた、と書いている人がいた。
こういう常識的で冷静な判断が大事なのだろうと思う。
一方、アクロバティックな動きをする乳児を見て、次はどんな変化が起きるのか楽しみ〜と書いている人もいた。
子供は生き物、人間であって、エンタテインメントではない。
見たこともない凄いことが起きるのを、子供が良くなっている証拠と思ってしまうのだろうか。
名医をもてはやしゴッドハンドなどと呼称する、昨今の風潮を思う。
腕のいい医師、施術師は確かにいるだろうし、絶望していた病状が加療されて思いのほか好転すれば、神業のようだと感じられるかもしれない。
けれどありえないような回復の奇跡を、安直に期待する思考は危険だ。
奇跡はきわめて稀にしか起こらないからこそ、奇跡と言う。
件の施術師の肩を持つわけではないが、奇跡のような神業を安易に期待する風潮が、その施術をだんだんとエスカレートさせてしまったという側面も、もしかしてあったりはしなかっただろうか。
奇跡的治癒を求めるあまり、人体の限界も人間の知力や技術の限界も無視して突き進むなら、その先にあるのはただ1つ、破綻が招く悲劇的結末である。
こうした教訓は、医師に対しても言える。
非常に出血しやすい臓器である肝臓の切除手術を、内視鏡で強行し続けた蛮勇。
首のふくらみを治すための手術後、図らずも人工呼吸器装着となってしまった幼児に、さらに禁忌薬を過量投与してはばからなかった無節操。
得られた結果は取り返しのつかない、死。
こうした医師は、患者を尊重せず、人体を敬うことなく、自らの未熟に無自覚なまま、肥大した自我で医療を行っていたのだろう。
どちらのケースでも、医師は簡単な手術と言っていたらしい。
何が起こるか分からないのに簡単と言い放つその態度からも、とてつもない驕(おご)りの姿勢が見て取れる。
肝臓は出血の制御が非常に困難だから、怖い。
首は、大事なものが一杯通っているのに硬いもので守られず動きやすくて、怖い。
医療を行う者なら、当然そういう認識を持っているべきだ。
首では、とても浅い所を太い静脈や動脈が通っている。
頸動脈洞という場所もあり、ここは圧迫されると反射で脈や血圧を低下させる。
硬いものといえば後ろ側に1本、背骨の中では1番細い首の骨、すなわち7個の頸椎が通っているだけ。それが体を支配する神経の幹、脊髄神経を囲み守っている。
空気の唯一の通り道であるいくらか硬い気管も、食べ物を送る食道も、頸椎の前に沿うことでかろうじて支えられているだけだ。
首の動静脈やその枝を傷つければ、大出血を引き起こす。
頸椎が歪んで中の脊髄神経を損傷すれば、その下の全身が麻痺となるし、
脊髄神経の上方、脳との間の脳幹には、呼吸・循環の中枢があり、損傷は呼吸停止・循環不全を生じる。
首を押さえ付けて気管を塞げばもちろん、窒息。
どれをとっても致命的だ。
頭や胸や腰は、硬い骨で囲まれ守られているので、簡単には刃が立たない。
お腹はむき出しゆえ切腹の対象ともなったが、表面に大きな血管や神経はない。
腕や脚は、ところどころ動脈が表在するところを敢えて切ったりしなければ大丈夫。
それらに比べ首は・・。
だから私は医師として頸部の病変を処置する時、ほんの1-2cmの範囲を浅くしか切らない皮膚生検や皮膚腫瘍切除でも、怖いなと思う。
どこか浅いところの血管にメスが入ったり、癒着していて引っ張って裂けたりしたら、命取り。
首にはそういう怖さがある。
すぐ終わる簡単な手術のはずが、集中治療室で人工呼吸器装着となっていたのは、何かそうした不測の事態が生じたのだろう。
首は怖い。
人体は、扱いを誤れば怖い。
容易(たやす)く良い変化を起こさせることなどできないのだと。
人体に向き合う医療者は、心してかからなければならない。
そしてその医療を受ける側も、安易な奇跡を望んではならない。
2015.3.