炭鉱のカナリア



「アレルギー患者は“炭鉱のカナリア”だ」
という話を聞いたことがある。

その昔、新しい炭鉱を見つけて初めて入って行こうとするとき、中に有毒ガスでも漂っていて死んでしまうといけないので、まずカナリアを放って飛び入らせる。そのカナリアが無事に帰ってきたら、「危険はない」と判断し、人間が中に入る、ということをしていたそうだ。

この地球上でも、昔からのさまざまな物質があるところに、新造のあまたの物質が日々加えられ続けている。
食品やら、天然や合成の化学物質やら、電磁波やら、病原体やら。
そんな得体の知れない物どもに、私たちは毎日接し、何らかの形で体の中に取り込み続けてもいる。

地球上という炭鉱で、中に存在する物質に未知の反応を起こし、ダメージを受けて命からがら、外によろめきい出ようとしているのが、アレルギー患者だというのである。

実に哀しい話だ。そして同時に、示唆に富む。

. まず、我が身を犠牲にして人間を救う、カナリアのなんという哀しさよ。
自分が実験台になっているとも知らず、無垢に飛び入っていくのだろう。
なぜ自分が死ぬかも知らず、ただもがき死んでいくのだろう。

そして、カナリアを犠牲にせざるを得ない、人間の哀しさよ。
彼らが命を失うかもしれないことが分かっていても、
自分たち人間を犠牲にするよりはいいと考えざるを得ない、
その性(さが)をあざといと言うべきだろうか。

人間の知恵は、知略(ちりゃく)と背中合わせ。
動物の無邪気は、無知蒙昧(もうまい)と背中合わせ。

知恵を得た人間は、生態ではなく生活を築く。
生活は、常に改善を求めて止まるところがない。
よって、どこなりと資源があるなら、掘らねばならない。
生活のため収入を得るにも、働くことが必要だ。

人間は、他の動物を自分たちより下に見る。
古来日本でも、「畜生(ちくしょう)」という呼び名があるように。
人が養っているもの、人の支配下のもの、人に従うべきものとして。
そして都合のいいことに、彼らは人の言葉がしゃべれない。

反抗の言葉と、逆らい逃れる知力がないのをいいことに、
人間は彼らを実験に使う。
生き物で調べなくては実態が分からないけれど、
危険かもしれなくて、人間ではしたくないような実験に。

この人間の所行(しょぎょう)を、私は責める気にはなれない。
けれど哀しいと思う。
どんな生き物も、自分を守るという本能を持っている。
人間は人間で、こう生きるしかないのだろう。

これはそのまま、社会の縮図である。

例えば、ある会社が新商品を開発する。
今までの物より使い心地がいいとか、何か付加価値を持ったものを。
より良い物を求めるのは、生活する人間の性だし、
それに応えて売れる新商品を開発するのは、会社の性だ。

最初に使い始めた人たちに問題がなく、むしろ好評であれば、
商品はだんだんと市場に広まっていく。
カナリアは無事に生還したのである。

一方、新商品は使ってみたら、
実は多くの人にひどいアレルギーを起こすことが分かったとする。
傷付いたカナリアが無視できない程多くなれば、
問題商品は、販売停止に追い込まれるだろう。

(記憶に新しい、小麦加水分解物で肌触りを良くした石鹸
「茶のしずく」のことを考えて下されば分かり易い)

手傷を負ったカナリアは、補償してもらえるかもしれない、
治療してもらえるかもしれない。
しかし、ここで忘れてはならないことが1つある。

その物質に対してアレルギーがなかった時に時間を巻き戻すことは、
現代西洋医学にはできない。
獲得したアレルギーは、その人にとって一生ものになってしまう。
常に避けるという不自由を、残りの生涯にわたって背負わされる。

だから思う、私たちは無知なカナリアになってはならない、と。
宣伝文句は、いいふうにしか言わないと相場が決まっている。
安易にそれに乗せられてはいけない。
新しい物に飛びつくのは、ほどほどにしておいた方がいい。

IHヒーターを使い始めたせいで電磁波アレルギーになっても、
まつげメイクに凝って接着剤やビューラーの金属のアレルギーになっても、
ステロイドなどで当面の症状を治したあとは、
一生それらを避ける生活を続けなければいけなくなるのは、
カナリアとなった自分自身なのだ。

決して、製品を販売した側の人ではない。
クレームをつけたり、謝ってもらったり、慰謝料を払わせたりすることは
できるかもしれないけれど、
アレルギーという障害をお返しすることはできない。

この厳然たる不合理な事実を、
ぜひ知識として頭に刻み込んでおいてほしい。

どんなものを使うとしても、何らかのリスクを伴う可能性はある。
どれにアレルギーになるかならないかを予測することはできない。
だから、自分がその物を使うかどうか、それを食べるかどうかは、
将来起きる危険性の可能性と、今得られる快適さとを、天秤にかけて、
自ら判断を下すしかない。

だからこそ、危険性がありうることを認識していることに意味がある。
そればかりに捕われてノイローゼになってはいけないけど、
生産者が提供する物はすべて安全と思うのは、楽観的に過ぎる。

つねに自分が選択したことに責任が生じているのだ。
それを知らないと、知らぬうちに炭鉱の中に追いやられているかもしれない、
そんな世の中に私たちは生きている。

哀れなカナリアの犠牲は、
なのに切り捨てられがちである。

商品を販売する会社にとっては、アレルギーの多発は不祥事。
売り上げ、収益、評判、社員の生活、すべてにとってマイナスとなる。
だから、できるだけ大事にならないようにしたい、
できればなかったことにしたい。

ここで、全てか大多数の人に発症する中毒と違って、
アレルギーは非常に微妙な病態である。

腐った食べ物は誰にとっても害であり、 それを出した店は絶対的に悪いと言えるが、
一部の人のみが具合悪くなり、その他の人は何ともない物を、
一概に悪いとは言えない。

一部の人にしか発生しない症状。
それをもってしてその製品自体を排するべきか否か?。

結局、同じ程度の確率やひどさの問題を起こした物でも、
世間で騒がれたどうかで、排されるかどうかの運命が分かれる、
というようなことがしばしば起こる。

ならばと会社は、事態を過小に秘密裏に扱うことで、
難を逃れようとする。

医療者にとっても、アレルギーの診断は因果関係の証明が難しい。

簡単にできる血液検査で、複雑な病態を正確に描き出すことはできず、
その他はみな原因物質を再投与して不都合な反応を引き出す検査。
危険を伴わないという保証はない。

危険を覚悟して検査を敢行するか、
無難に推測のみでとにかく避けておけばいいとするか、
究極の選択は、諸事情から後者に傾くことが多いだろう。

確定診断がつかないケースが増えれば、原因物質の害毒性の根拠は、
より薄弱となってしまう。

カナリアの苦しみの程度より、会社や医療者の事情の方が、
結果に影響してしまうという、非情な現実。

カナリアとなって苦しむのは患者なのに、
病気という障害を負ってしまったことによって、
彼らはむしろ劣勢に立たされた弱者となる。

下に見られているとは思いたくないけれど、
ないがしろにされているという感触を抱いている
アレルギー患者は多いだろう。

カナリアと違って、私たちは同じ人間。
販売した会社の人や診断評価する医療者との間に、
ほんとうは貴賎(きせん)の別などないはずなのだが。

.
. カナリアが毒ガスで死んだ炭鉱には、
もう誰も近付かなかったことだろう。
人間が危険な毒ガスと認め、さらなる犠牲を避けてくれたことで、
少なくともカナリアの犠牲は生かされた。

アレルギー患者の犠牲は、どうしたら生かされるのだろう。
アレルギーが、ごく一部の人たちだけに起こる特殊な反応で、
多くの他の人たちにとって危険物ではないという考えに基づけば、
彼らが倒れても、原因物質は、環境に残り続ける。

カナリアは苦しみ損となるのであろうか。
いや、それでは彼らが浮かばれない。

生産する人たちの立場も認めた上で、有害事例も衆目にさらして、
地道に評価をし続けなければならないだろう。
その一方私たちみなが、果てしなく求め続けるのではなく、
足りることを知らなければならない。

そして、カナリア自身には、アレルギー体質の改善という救いを。
それこそを願って、私は医療の細い道を歩み続ける。

2012.02  

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