「アレルギー患者は“炭鉱のカナリア”だ」 という話を聞いたことがある。 その昔、新しい炭鉱を見つけて初めて入って行こうとするとき、中に有毒ガスでも漂っていて死んでしまうといけないので、まずカナリアを放って飛び入らせる。そのカナリアが無事に帰ってきたら、「危険はない」と判断し、人間が中に入る、ということをしていたそうだ。
この地球上でも、昔からのさまざまな物質があるところに、新造のあまたの物質が日々加えられ続けている。 地球上という炭鉱で、中に存在する物質に未知の反応を起こし、ダメージを受けて命からがら、外によろめきい出ようとしているのが、アレルギー患者だというのである。 実に哀しい話だ。そして同時に、示唆に富む。
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まず、我が身を犠牲にして人間を救う、カナリアのなんという哀しさよ。 自分が実験台になっているとも知らず、無垢に飛び入っていくのだろう。 なぜ自分が死ぬかも知らず、ただもがき死んでいくのだろう。
そして、カナリアを犠牲にせざるを得ない、人間の哀しさよ。
人間の知恵は、知略(ちりゃく)と背中合わせ。
知恵を得た人間は、生態ではなく生活を築く。
人間は、他の動物を自分たちより下に見る。
反抗の言葉と、逆らい逃れる知力がないのをいいことに、
この人間の所行(しょぎょう)を、私は責める気にはなれない。 これはそのまま、社会の縮図である。
例えば、ある会社が新商品を開発する。
最初に使い始めた人たちに問題がなく、むしろ好評であれば、
一方、新商品は使ってみたら、
(記憶に新しい、小麦加水分解物で肌触りを良くした石鹸
手傷を負ったカナリアは、補償してもらえるかもしれない、
その物質に対してアレルギーがなかった時に時間を巻き戻すことは、
だから思う、私たちは無知なカナリアになってはならない、と。
IHヒーターを使い始めたせいで電磁波アレルギーになっても、
決して、製品を販売した側の人ではない。
この厳然たる不合理な事実を、
どんなものを使うとしても、何らかのリスクを伴う可能性はある。
だからこそ、危険性がありうることを認識していることに意味がある。
つねに自分が選択したことに責任が生じているのだ。
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哀れなカナリアの犠牲は、 なのに切り捨てられがちである。
商品を販売する会社にとっては、アレルギーの多発は不祥事。
ここで、全てか大多数の人に発症する中毒と違って、
腐った食べ物は誰にとっても害であり、
それを出した店は絶対的に悪いと言えるが、
一部の人にしか発生しない症状。
結局、同じ程度の確率やひどさの問題を起こした物でも、
ならばと会社は、事態を過小に秘密裏に扱うことで、 医療者にとっても、アレルギーの診断は因果関係の証明が難しい。
簡単にできる血液検査で、複雑な病態を正確に描き出すことはできず、
危険を覚悟して検査を敢行するか、
確定診断がつかないケースが増えれば、原因物質の害毒性の根拠は、
カナリアの苦しみの程度より、会社や医療者の事情の方が、
カナリアとなって苦しむのは患者なのに、
下に見られているとは思いたくないけれど、
カナリアと違って、私たちは同じ人間。
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カナリアが毒ガスで死んだ炭鉱には、 もう誰も近付かなかったことだろう。 人間が危険な毒ガスと認め、さらなる犠牲を避けてくれたことで、 少なくともカナリアの犠牲は生かされた。
アレルギー患者の犠牲は、どうしたら生かされるのだろう。
カナリアは苦しみ損となるのであろうか。
生産する人たちの立場も認めた上で、有害事例も衆目にさらして、
そして、カナリア自身には、アレルギー体質の改善という救いを。
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