時代劇を見ていると、何か違う、独特の雰囲気をよく感じる。
建造物や衣装など風俗ではない、その意匠(いしょう)の違いがよって来たる所に、最近気付いた。
しばしば画面が、とても暗いのだ。
「夜目が利く」という言葉があるように、昔は太陽光のない夜の闇は凄まじく、それを埋めるものといえばかすかな炎の光だけだった。
暗くなったらもう大したことはできない、ほぼ眠るしかない生活。さぞかし不便だったろう。
それに引き比べると、今の時代はとてつもなく便利と言える。
電気の恩恵。
さらにLED電球の発明と普及が、電球交換や電力消費という残された問題さえも大きく低減した。
小さくても極めて明るく、ほぼ切れることもなく、輝き続ける電球。
その光は、広大な電飾の創造を、誰にでも容易なものとした。
併せてコンピューターグラフィック技術の発展が、精緻(せいち)な光の映像を作り出し、
それらがあらゆる所に、プロジェクションマッピングで映し出されるようになった。
夕闇に沈んで見えなくなるはずの桜や紅葉、庭園や花畑も、ライトアップをすれば夜になって訪れた人たちも楽しませることができる。
クリスマスイルミネーションの華やかさは、年ごとに増しこそすれ、減ることは滅多にない。
あまりの派手派手しさに今年は、それらを綺麗だと思う一方、「そう思うことを強いられている」ように感じ出している。
自分が眼の疲れを意識するようになっているせいかもしれないが。
こうした光彩を、恵みというより負担として受ける時代が始まっていて、その始まりに立ち会っているのではないかと感じるのだ。
景観を夜間まで人工照明で照らし続けることは、私たちにとっては心の癒しになるかもしれないが、木々にとってはどうなのだろう。
それらの中にある自然な生体リズムの制御を、狂わせてしまいはしないだろうか。
ちょうど、温室の中で光を当て続けることで、季節外れの作物が栽培されるように。
私たちは、地球上の他の生き物である植物をも、自分たち人間にとって都合のいいように、恣意(しい)的に運用している。
すでにその恣意の結果としての温暖化で、この秋・冬にはそこここで、花々の狂い咲きが見られている。
我が家では、冬至の風物、柚子の実が実るかたわらで、一株のつつじがその花を開いた。
さながらそれと同様に、きらびやかな光の洪水もまた、それをあやつっているつもりの私たち人間の体をも、蝕(むしば)んでいくのではないだろうか。
大人たちは一日中仕事でパソコンと、子供たちはギガスクール構想の下与えられるタブレットに日々向き合う、未曾有の時代が訪れている。
電子化の波は宿命的なもので、止められない。
そのマイナス面に十分に気付かぬまま、人類は便利さを求めて突っ走る。
電子本、ゲーム機、YouTubeにテレビに映画。娯楽でさえもがどんどん、電子画面を通じて楽しむものへと置き換わっていく。
スマホを含め、日々処理しなければならない膨大な文字や映像を、現代人はバックライトの灯りの中で見ている。
目に飛び込んでくる光の渦を、ほとんど眩しいと意識することすらなく、無制限に浴び続けているのだ。
近年の子供達の運動能力低下を知っている人は多くいるだろうが、視力低下が深刻であることを本気で心配している人は、果たしてどのくらいいるだろう。
矯正不能な眼球の損傷や失明にまで繋がりうるなどとは夢にも思わず、ただ日々の眼の前の誘惑に、盲従させられている人が多いのではないか。
近くにピントを合わせて見続ける作業の連続は、眼の調節能力を消耗させ、近視に始まる眼球障害を招いていくわけだが、それでも画面を見続けさせてしまう多色で細密なコンテンツを可能にしているのが、光というその魔物なのである。
結論。照明は選んで使おう。
自分の体を、地球の未来を守るために。