仕事が休みの日。
郵便局へ行く。銀行へ行く。買い物をする。
ごくごく普通の、生活の営み。
係員や店員に相対(あいたい)する。
視線を送り合い、言葉を交わす。
「では、こちらを。」と言われ、「お世話様でした!」と返す。
そんな、生活の中で当たり前に行われる社交。
それを、今こんなに自然に行える自分を、再発見する。
なんと楽にできていることか、と驚く。
泣きたいほどに、切なくなる。
それは、楽にできなかった時期が、自分にあったから。
体の苦痛に耐えつつ、その場を乗り切ることだけに心を注いでいた。
用事を済ますのが精一杯で、ろくに話しをする余裕も無かった。
一方で、自分の外見を人目にさらすことの苦痛と不安にも、
つねに苛(さいな)まれ、おびえていた。
それがどんなにつらいことであったか、
病が癒えてきた今になって、よく分かる。
知人との会話が、以前より弾むようになった。
その中の1人が言って下さったことなのだが、
「前は、話しかけたら怒られそうな感じだった。」のだそうだ。
自分では全くそのようなつもりはなかったのだが、
さぞかし必死な形相をしていたのだろう。
振り返って想像すると、我ながら笑えてくる。
過去の写真を見ても、そうだ。
その時の自分の精神状態がうかがわれる。
体がつらかった時の写真は、しかめ面や、やつれ顔。
自分の意識している記憶では、楽しく撮ったつもりのものでさえ。
不思議なものである。
事実はこんなにも正直だ。
病であることのつらさは、そこにある事実であり、真実である。
日本人の好む精神論では、よく
「気の持ちよう次第で、消せるもの」
であるかのようにというけれど、
私は、そうではない、と思う。
肉体的苦痛は、まさしく苦痛である。
そして長引くそれは、必ず精神的苦痛を伴ってくる。
病むことは、つらく、苦しい。
その辛苦は、病が癒えてこそ、消えていくものであろう。
つらくて、それでも無理して頑張って、生きていた私の過去の日々。
必死に隠して「私は大丈夫」と言い聞かせて、でも、
無理していると、態度に出ていた。
それで良かったのだ、と思う。
自分のつらさに甘えない配慮は、社会人として必要な観念だ。
対外的にはむろんそうするのが正しかろうが、だからといって、
自分のつらさの存在を否定することはない。
つらくて、どうしようもない時期もある。
その時は、つらさの中にどっぷりつかり、もがき苦しむしかない。
いつかその苦しみが、光の道をたぐり寄せる時が来るだろう。
真実を見つめ、乗り越えよう。
2008.10