「なんで私が東大に!?」という、予備校の宣伝コピーがある。
昨今やたらと目につくのだが、これが私にはどうにも癇に障る。
だって、“なんで!?”という多分に感情的な言い回しの意味するところは、何だろうか。
合理的な予想を超えたことが起きたという意外さと、それに対する驚き、であるだろう。
この場合の「意外なこと」とは、東大合格という非常に好ましい結果である。
それが奇妙なのだ。この言い方は通常、好ましくない出来事が起きた時に用いる言い方だからである。
すなわちこのコピ−の狙いは、敢えて常識的でない言葉の使い方をすることで、特異なアピールをしようというところにある。
人の意識の逆を突く上作と言うべきかもしれないが、まさにそれ故にこそ、私には、あざとく嫌味な下作に思える。
誰しも、何かしらの嫌な目に遭ったことがあるだろう。
そんな時、人間としての感情を持つ者なら誰でも、
「なんで私がこんな目に(遭わなければならないのか)!?」
と、多少なりとも、苦々しく思った経験を持っているはずである。
既に読者の想像も及んでおられるだろう、そう、アトピー患者であれば、
「なんで私がアトピーに(ならなければならないのか)!?」
と、もちろん思わずにいられない。
この思いは、患者の心の中に、澱(おり)のように深く悲しく沈殿する。
病状の悪い時は強く大きく、そしてしばしば軽快した後にさえ、つらい思い出や再燃の恐れとともに、心に居座り続けるかもしれない。
「体質だから仕方がない」
その言葉で納得すべきと考え、患者の理性は納得する努力をする。
社会に適合してい続けるために、「わからずやの変な奴」と指差されるような者にならないために、自分は納得したと思う。
しかし感情は取り残される。
「どうして、ろくに掃除していない部屋でも他の人は平気なのに、自分はすぐ具合が悪くなるのか?」
「どうして、卵(や牛乳や砂糖や小麦製品などなど・・)をたらふく食べていても、隣の人は何ともないのに、自分は少しばかり食べることさえも許されないのか?」
「どうして、花粉が平気な人とだめな人がいて、自分がそのだめな人に当たってしまったのか?」
「どうして、みんなは何の努力もせずに健康でいられて、毎日懸命に体に悪いことを避けている自分が不健康なのか?」・・・
「なんで、どうして?。なんで自分だけが!」
病気とは、本当に不条理だ。
患者であるとは、その不条理を抱え続けて、生きていかなければならないことだと思う。
切なく苦しいけれど、それが宿命なのだと思う。
余人が代わってあげることはできない。
どんなに温情にあふれた医師やその他の治療者であっても、この思いを肩代わりしてもらうことはできない。
その思いの存在を認めよう。
それを恨み嘆き悲しむ自分を、認識しよう。
「アトピーになったおかげで、学んだことがいろいろある」、
それは確かにそうかもしれない。
「健康意識が高まり、他の病気になりやすいような生活を避けることができた」、
それも事実かもしれない。
しかしそれでも、
「できることならば、アトピーでなかったら良かったのに!」
と言う気持ちが、きっと、心の中のどこかにあるだろう。
アトピーであることに理性で意義を見出そうとすること自体が、この思いの裏返しの表現であるようにも思える。
多くの場合、患者のこの思いを受け止める場所は、医療現場にはない。
患者がアトピーであることを前提に、治療計画は組まれ、展開されていく。
結果として運良くアトピーから遠ざかれることはあっても、アトピーでなくなるという結果を確実に約束してくれるような治療法は、残念ながら現状では、ない。
1)再燃の可能性も含めて、完全にアトピーと縁が切れる。
2)いつか再燃するかもしれないけれど、今は全く症状がない状態である。
3)時々の痒みなどの、ごく軽い症状しかない。
4)多少症状があるが、外見上も目立たず、さして困ることもない。
5)かなり症状があるが、今までの状態に比べたら、明らかによい。
例えばあなたなら、これらのうちのどの段階をもって、「治る」ことだと思うだろうか?。
大概の医師は、3)〜5)の状態を想定して、目標としている。
ところが、患者の真の望みは、1)か2)なのである。
これでは、互いの思いはすれ違い続けるのも道理である。満たされない気持ちが鬱屈し、ともすると不信にも繋がるだろう。
患者は完治を望んでいる。
医師は完治を提示できない。
互いにそのことを曖昧にせず、はっきり認識すべきだろうと私は思う。
その上で、どんな治療や養生法をする場合にも、それによって得られるであろう「治り」の段階を、あらかじめ見積もってから、取り組むようにすべきなのではないだろうか。
そうすれば、治療の結果に失望することが、もっと少なくなるだろう。
いわゆる民間療法に対しても同様である、騙されて損をするようなことが、起こりにくくなるのではないだろうか。
なぜならそれらは、不合理で過大な期待から生じるものだからである。
得られないものを、得られないと明確に認識することは、もちろん愉快なことではない。
つらく悔しいことであるだろう。
しかしそれを過不足なく冷静に認識し、素直に嘆く人を、私は魅力的だと思う。
私自身も、そういう患者であり、医師でありたいと思っている。
アトピー患者であるという宿命を、命の輝きとするために。