「アトピーが私からあらゆる能力を奪っていく」
と自分の病歴の中で書いたことがある。
まがりなりにも社会人として再び仕事をする身になって約1年半が過ぎたこの頃、そのことをまた考えるようになっている。
周知のように、長期の療養生活の果てに私は社会復帰を果たした。
そう聞いて、他人が想像する姿とは、何だろう?。
すっかり元気になってごく普通に働く、そんな姿ではないだろうか?。
そのことに私は違和感を感じる。
なぜなら、「すっかり元気」になど、決してなってはいないからだ。
限られた時間、日中の通勤と勤務時間の間、他人の視線にさらされる間、私は1人前の健康な人間としての働きをする。
その姿を見る人たちは、1日中元気な人間を想像するだろう。
ところが、他人の見ないオフの私は、オンの私のように元気ではない。
まる1日働けるくらいにはなったが、2日3日と続けて働く体力はない。
休日には長い昼寝をしないといられない。
少しの労働ですぐ疲れるし、その疲れがまたなかなか取れない。
帰宅後、就寝時、夜中は痒い。嫌になるほどの痒みに嘆息する。朝までぐっすり眠れる日などない。
現在の私は、ざっとそんな状態である。
おそらく世間的な感覚では、病後の経過のイメージとは、以下のようなものではあるまいか。
ー例えば入院だの手術だのをすれば、体調の回復にいくらかは時間がかかるが、リハビリや治療の続きをして、徐々に良くなる。
そうして、復帰して1年2年と断った頃には、以前の生活を取り戻し、「あの時は大変だったね。」、と振り返る。
なぜ私は、そうならないのか。
わかっている、私は「病後」ではないからだ。
ただ療養後であるだけだ。
私の療養生活は終わりを告げた。
けれど依然として私は、アトピー性皮膚炎(以下アトピー)という病気に、別れを告げてはいない。
社会復帰は、快癒・治癒とイコールではない。
それなのに、他人から見るとイコールに見えてしまいやすいのかも知れない。
他人の姿は、外から見えるその一部しか、知りようのないものだから。
だけど本当は、病気と健康の間に、明確な境界線など引けない。
段階的な連続があるだけである。
社会復帰は、ひときわ大きくて目立つ一段階であるにすぎない。
私はいまだ病中にある。
そして、病気が奪う患者の、自分の、能力のことを考える。
皆さんご存知のように、アトピーはアレルギーの病気の1つだ。
アレルギーとは、外界から体内に入る無害な物を有害として、過剰な免疫反応を起こすものである。
その結果、正常では起こらないはずの反応が、体内で起きる。
それがさまざまな不快な症状となる。
アトピーの場合、その症状が出る主な場所が皮膚だから、皮膚炎と言う。
このアレルギー反応の結果生じる皮膚炎は、大変に痒い、という特徴を持つ。
患者はいつも痒みに耐えながら、日々の行動をしなくてはならない。
その忍耐のために要する力は、本来必要なかったはずのものだ。
患者は、体の持つ活力を、余分な所に浪費していることになる。
同じことは、痒み以外の他の症状についても言えるだろう。
皮膚の損傷に基づく痛みや、赤みの火照り感に。
皮膚のみならず、呼吸器系や消化器系など、体の他の場所でもアレルギー反応が起きているなら、それによる症状の苦痛に。
さらに患者の示す他の症状の中にも、私たちがまだアレルギー反応の結果だとは把握していない何かがあるかもしれない、その症状たちに。
それら全てに耐えるために、患者は活力をすり減らす。
また一方で、体内で正常では起きない反応が起きている、ということは、別な意味も持つだろうと私は考えている。
それは、「その反応が起きている分、そこで起きるべきだった本来の正常な反応を妨げている可能性」である。
例えば、居座った岩の下には、植物が生えられないように。
地中に埋まった種が芽を伸ばそうとしても、岩の下には空間も日差しもなく、芽が地上に現れ育つという、本来の生育を妨げる。
体内での、本来の正常な反応が妨げられる、とは、どういうことか。
体の機能障害が生じる、ということである。
患者の体は普通の人よりも、上手く働かない部分を抱えている。
その部分に関わる行動をすれば、患者は普通の人よりも上手くできないだろう。
病気の苦痛に活力を吸い取られ、病気に邪魔されて機能を失う。
この2つの理由により、患者の能力は損なわれる。
私はそう考えている。
どうしてこういうことを考えるかというと、遅々とした回復しかしない自分、いつまでもひ弱で頑張りがきかない自分に、日々直面しながら、私が生きているからである。
そんな自分を、たいそう情けなく思う時も少なくない。
卑下(ひげ)して滅入らずにいられない時もある。
けれど、そんなふうに自分を責めるべきではないのでは、と、最近思うのだ。
だってこの非力には、ちゃんと理由がある、病気のせい、病気が私を痛めつけている結果なのだ、という理由が。
ならば、改心してもっとやる気を出そうとしたところで、結果は同じである。
これは、病気の作る陥穽(かんせい;落とし穴)だと思う。
病気を押して頑張っても、無理はいつまでも続けられるものではない、いつかそのしわ寄せが来る。
自分を責め続けて抑鬱的心情になれば、活力も治癒力も減退させてしまう。
どちらに転んでも患者は、むしろ治癒から遠ざかることになるだろう。
患者が怠けているように思ったり言ったりする、周囲の人もいるかもしれない。
だけど、その人が患者の体調の本当のところを、知っているわけではない。
体調を認識し管理するのは、患者自身の責任なのだ。
「病気による制限の中で、自分は精一杯頑張っているだろうか?。」
もしそれにイエスと答えられるのなら、それでいいのだ、と、今私は思っている。
自分で自分を意識して肯定的に認めてやることが、必要なのではないか。
つらい時であるゆえに。
幸いなことに、アトピーによる能力の損傷は、不可逆ではない。
もっと健康に近く、もっと有能になれる希望を、私たちはいつでも持ち続けることができる。
命ある限り、より良い自分を目指して歩いて行きたい。