[老いも悪くない]




中年後期は老いとの闘いだった。

元来、視力は良いほうだった私。
(幼少時に父が厳しく注意してくれたお蔭と感謝している)
文字の線が霞(かす)み始めたときの戸惑いは大きかった。

目をこらして何とか裸眼で見ようと頑張るしばらくの悪戦苦闘ののち、老眼鏡の模索が始まった。
そしてかける老眼鏡を選択するのみならず、かけるタイミングにも選択が必要なことを、今さらながらに知ったのだ。
手元の細かい文字や画像でなければ、まだまだ見えすぎるくらい見える。
(床の埃(ホコリ)や塵(チリ)が気になって仕方がない)
歩いているときまでかけ放しでいようものなら、行く先がぼやけて見え、気持ち悪くなってしまう。

技術の進化によりどんどん小さくなる文字や画像を見るたび、腹を立てる。
まさに典型的な老人像。
怒ってみても字が大きくなるわけではないのに。

何の気なく過ごしてきた日常の中、務めてきた仕事の中に、近くと遠くを交互に繰り返し、それぞれ細部まで見極めなければならない作業が実に多いことに驚く。
そのたび眼鏡のかけ外しが必要というのは、大した手間である。
目のピントが合うまで時間がかかったり、どうしても合わなかったりする経験を重ねるほど、目が今までこのすごい仕事を当たり前にしてくれていたことに、ひとえに感動するよりなかった。


中年前期まで速やかにこなせていた平易な雑事に、こうまで躓(つまず)く日が来ようとは。
これが、老いというものなのだと初めて知った。


その後、目だけに止まらず、いろいろなところに老いを感じるようになる。

見えないせいでもあるのだろうが、動作が万事、緩慢となる。
細々とした間違いや、勘違いが増える。
注意散漫になりやすくなる。
同じことをかつて俊敏・正確にできていたはずの自分は、幻のようにどこかへ行ってしまった。

若い頃はやり損なっても、やり直しや仕切り直しで改善する期待が持てた。
だが今は、急ごうと頑張るほど、むしろ事態が悪化する。
訓練で良くなるものではない、というのが、若い頃との決定的な違いか。
自分が無能になった気がして、がっくりと落ち込んだ。

まだ若いとき、アトピー性皮膚炎で療養生活が長くなった時期にも、病気のせいでいろいろな能力を失っていると感じて辛かったことがある。
あのときは、未来に回復の希望があった。努力を続けていればいつかは、と。
だが今回、先に見えるのは下り坂だけだ。

障がい者の苦悩に思いを馳(は)せる。
できないこと、英語で言うとdisable。
ability(能力)を欠くから、disable。
それを人生の実に早期から抱えつつ生きる、辛苦はいかほどであろう。

人は、与えられた現状の自分と折り合っていくべく運命付けられている。
私もまた、私のままに生きるしかない。

水晶体という眼のレンズの厚みを変えてピント調節をする毛様体筋の再訓練は不可能であることを悟ってから、私は人生で初めて眼鏡屋で視力検査を受け、老眼鏡と拡大鏡を購入した。
なるほどこれが、人間の智恵というものか。
今までにさまざまな人々が、いろいろな苦労をして、能力を補助し高めてくれる器具を開発してきた。
その恩恵に、今私も与(あずか)れている。
これは、とても幸せな気付きではないか。


キューブラー・ロスが提唱した有名な、人が自らの死を受容するまでのプロセスがある。
1) 否認
2) 怒り
3) 取引
4) 抑鬱
5) 受容
これとそっくりだ。
まず、「自分が老眼なんて嘘だ」と否定し、「まだ大丈夫」と眼鏡をかけろと言う人から距離を置く(1)。
それから「目を大事にしてきたつもりの自分がどうして」「字が小さすぎるからいけない」と怒り(2)、
「毛様体筋を鍛えれば治る」「度の弱い老眼鏡でもいける」と問題を小さくすべく画策を始め(3)、
それにも失敗して「ああ、もう決してかつてのようにできる日は来ない」と落ち込んだ(4)後に、
とうとう老眼の自分と折り合っていくことができる(5)ようになる。
「必ず来る嫌なこと」を受け入れるには、やはりこの長い過程が必要らしい。


だが、いざ受け入れてみると、
なぜだか、絶望的な感じは全くなくなった。
もちろんかけ外しの手間は厄介だし、とっさに拡大鏡が使えず難渋(なんじゅう)することはある。
眼鏡というデリケートな器具は、壊さないよう取り扱うのが大変で、持ち運びにも気を遣う。
ときには面倒で、老眼鏡を少しずり降ろしただけで、その上から遠くを見てしまう(笑)。
が、これもご愛嬌(あいきょう)なんだろう。
古来描かれてきた老人の顔に、よく眼鏡が本来の位置より下寄りにあるのを不思議に思っていたが、なるほどそれらは現実を正確に活写したものだったのだ。


むしろ最近の私は、そうなってもまだ自分に残されている技能が多いことに、逆に驚く日々である。
お蔭さまで、新しいことを自分の中に取り込む意欲は、まだ衰えていない。
その新しいことの理解が、以前より容易になってきたように感じる。
過去にずっと学び、経験してきたことが、失敗も含めそのすべてが、今になって有機的にひとつにつながり、さながら統合された大きな知識体系とでもなったかのようだ。
その体系を背景に、多面的な出来事のいろいろな面を、短時間のうちに頭の中で整理し対応する能力が、いつしか自然と我が身に備わっていた。

この年の功を生かし、
頼りになる村の長老みたいになれたらいいな。
それが今の野望である。

2023.09.  
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