検索時代



少し前、WEBネットワークの発展で、医師の仕事上必要なことなど、調べ物が非常に容易となったことを書いた(→)

以前はどうしていたかを思い起こすと、大学病院の研究室や図書館に出向き、大量の医学雑誌のストックが並んでいる棚に行って求める雑誌を、その何年の何号を見つけ出し、目指すページを開いて必要ならお金を払い、コピーを取らせてもらう。
資料を読む以前の入手段階に、何時間、何日という時間と手間をかかるのが当たり前だった。
市中病院に出たらもう最新の医療にはアクセス困難になると、それゆえに大学病院にとどまりたがる医師も少なくなかった。

それが今ではどうだろう。
インターネットは誰でも使える通信手段となり、
情報を持ち伝えたい人なら、誰でもが参加すべき巨大メディアに成長し、
前述の論文のような高度に専門的なものを含め、あらゆる最新情報がネット上で見られるようになった。

さらにコンピューター技術進化の果実、「検索エンジン」なるものが瞬時の処理能力を携えて、
一般的なこともマニアックなことも、今調べたいその情報に直接、たちどころにつながることを可能にした。
その前の時代を経験している者にとっては、まさに奇跡のようだ。


ただ、内幕を言ってしまえば、これは諸刃の剣でもある。
「検索」機能は、誰にでも開かれた扉だからである。
情報はすでに、専門家が占有して一般の人々に有難く託宣するものではなくなった。
ずぶの素人である患者であっても、十分な意欲と知能とスマホ1台さえあれば、自らの病状について相当な程度の知識を得られる時代となったのだ。

ピンポイントでそこだけに全精力を傾けているのだから、強力だ。
下手をすると未だ学会で周知に及んでいないほどの新知見や、実験段階の情報を手に入れておられることまである。
油断していれば、診察する医療者側が、ぶざまな不勉強を露呈することになる。

極言すれば、この高度情報化社会では、患者の方々が検索しそうなあらゆることを、医師は一足先に検索して学んでおかなければならないのではないか、とすら思う。
医師が手元に持っている教科書では古く、直近のハイブリッド学会でも網羅されておらず、専門雑誌の今月号には載っていなかった最新情報が、今見るネットにもうアップされているかもしれないのが、今日の社会である。
だが知ってさえいたなら、医師側はその情報の評価や位置付けについて、全体を知っている医療専門家としての力量を発揮できるはずで、それこそ患者の望んでいることなのだろう。


ときどき気になるのは、ネット情報に振り回されているような方がおられることだ。
中でも、不必要な検査を求め続けて納得しない人たちを、見受けることがある。
「ネットに『この病気(症状)ではこの検査をする』と書いてあるから、しないのはおかしい」という理論立てを彼らは展開するが、冷静によく読めばそうした記事には、必ずどこかにケースバイケースという留保記述が含まれているはずなのだ。

検査を実施すれば、費用もかかるし、体に対して何がしかの影響が生じるかもしれない。
医師はいつでもそのデメリットと得られる検査結果のメリットを、患者個人の状況に当てはめて天秤にかけ、実施するか否かの判断をしている。
とりわけ、侵襲性のある(という言い方を私たちはする、体を傷つける度合いが強いほど「侵襲性」と言える。例えば針を刺す『採血』は軽いが侵襲性がある、『細胞や組織を採取する検査』はもっとずっと侵襲性が高い)検査については当然のことながら、医師はより慎重になる。

体に何かができても、それが良性と考えられる状態であれば、細胞や組織を採取する検査は敢えてせず、一定期間「様子を見る」という対処をすることは、医療の中でよくある。
そして予想した通りにそれが程なくして消失したなら、病名が明確でないまま終わってしまうわけではあるが、「治療しなくて良いものだった」ということだけはわかる。
医療とは、そうした不確実性を常に孕(はら)んでいるものだ。

専門的見地を持って、検査に踏み切るかどうか、するならどんな検査か、様子を見るならいつまでか、といった判断を挙行するのが、医師の仕事であり、責任である。
とはいえ一方では、「病院に通っていたのに、癌を見過ごされていた」というような種の話もまた、SNSを通じて津々浦々まで、容易に拡散して知らされるのが今の世だ。
「是が非でも調べて」というこうした人たちは、「目の前の医師を信用しきれない」から「検査結果という証拠で安心したい」と思っている、すなわち医療不信を表出している存在であるのかとも思う。

日本の医療はまだフリーアクセス制が維持されているので、「ここでは治りそうにない」と感じた患者は、自由に医者を変え、別の所を受診することが許されている。
だが、他の先進国のように指定された医師に予約を取ってしか病院にかかれない(日本政府はそうした方向性を目指している)ようになったら、こうした人たちの不信や不満はどこへ向かえばいいのだろうか・・?
空恐ろしい感じが拭えない。


ともあれ、実際の診察と、ネットからの最新医療情報の両方をすり合わせて、より良い診断や治療に行き着けるなら、それは良いことには違いない。
技術は良い方向に活かしていきたいものだ。

患者が検索して出てきたその疑い病名が妥当かどうか、専門家である医師が、対面の診察で見極める。
まあこの段階も将来はAIに取って代わられるのかもしれないが、まだそこまでの時代は来ていない。
診察時の医師の頭の中は、さながらそのAIのように目まぐるしく、問診・視診・聴診・触診・場合によって打診・鑑別診断は・診断のために必要な検査は・その結果をどう考えるべきか・・・といった情報が高速で処理されており、患者との会話を続けながらも次は何を聞くべきか、その答えがこうならこちらに進みこの検査をして・・・という医師の自問自答のアルゴリズムが展開されている。

検査をするなら、当たり前のことだが、「どういう結果が出たらどう対処する」という見通しがあるからでなくてはならならない。
だからもし医師に不信感を抱いているなら、聞いてみてもいいかもしれない。
「その検査の結果がどうだったらどうするんですか」とか、「様子を見ているうちにどうなったら、放っておいてはいけない状態なんですか」と。
そしてその返答が納得のいくものかどうか、あなたは自分の頭で判断できなくてはならない。
知識はある程度の言葉が入力できれば自動的に出てくるが、医師の説明を評価するための判断力は、自分が生まれて以降今までの人生で培(つちか)ってきていなければならない能力である。


私が医学生だった頃とは比べようもないほど、とてもたくさんのことが詳細にわかってきた今。
学べることは無限にある。
それが可能なこのときに生きていられることに感謝しつつ、
それと引き換えとも言える途方もない自然災害をどうにか掻(か)い潜(くぐ)りながら、
より良い治療者になるべく努力を、日々続けていきたい。

2023.07.  
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