保湿狂時代






アトピー患者の治療の一部に、皮膚の保湿がある。
それが推奨(すいしょう)される訳は、ざっと以下のようである。

患者の皮膚では、保湿機能に問題が生じている。
そんな皮膚では、外界からの余分な異物の侵入を防ぐ、というバリア(防壁)機能を充分に果たすことができず、侵入した異物がアレルゲンとして働き、アレルギー反応が生じることに繋がる。

こうした病的状態への対策として、一般に「保湿すること」が励行される。
外から保湿剤を塗ることで、皮膚での不足分を補おう、という発想である。

この補われた保湿によって、皮膚の潤いが回復し、皮膚の外観と機能が改善する。
バリア機能も補われれば、アレルゲンの侵入が減少し、結果としてのアレルギー反応による、アトピーの湿疹の症状が出ることも少なくなる。
それが、予想される好ましい結果だ。


しかしこの頃、皮膚科医の1人として現場にいて、この「保湿すること」がどうやら "過剰" になっているのではないか、と感じることが、しばしばある。

潤いがほとんど常に保たれている肌の状態になっても、保湿を止めない患者の人たち。
どこもかさついて見えない子供の肌に、欠かさず毎日熱心に保湿剤を塗り続ける、患児の母親たち。
そんな状況を、診察室でよく見かけるようになっている。
これは異常な事態ではないのだろうか・・・?。


そもそも保湿を奨励しはじめたのは、医師の側だった。
ただ塗るというだけに止まらず、入浴後皮膚が乾かないうちに塗ったほうがいいとか、充分な量を使うことが有効だとか、いろいろなことが言われてきた。
これだけでも私などは、「そこまでしなきゃいけないものか?」という疑問を感じていたのだが。

それが最近では、医師の考えはさらに進んでいる。
皮膚科からは、症状が治まっても、保湿剤を続けることで再燃が予防できる、という研究報告がなされ、
従来除去食等のほうに熱心であった小児科でも、保湿剤やステロイドの外用療法を充分に行うことが有効だ、という報告がなされている。

医師に、一日数回以上の保湿剤外用を指示された患者もいるそうだ。
それにどれほどの手間と時間(とそして費用)がかかると思っているのだろう?。
保湿剤を塗るために、人間生きている訳じゃない。
本当の目的を見失ってはいないだろうか?。

医師の指導に患者は従うのだから、その指導の責任は大きい。
無駄なことをさせているのだとしたら、罪作りな話になってしまう。
だから医師は、患者よりずっと、悩まなければいけないはずだ。


私は、「補いは補いにすぎない」と考える。

保湿を一切止めて自然に任せられれば、もちろんそれが一番だ。
本来健康な人間の肌の、あるべき状態である。
ところがそれが、上手く健康に機能しなくなってしまい、そのまま回復を待つのもつらすぎるか、あるいは回復があまり期待できないような状態になってしまったので、しようがないから、外から補うのだと思う。

だったら、とりあえず補えればそれでいいではないか。
それで病気そのものが治ってくる、なんていう方向に考えがいってしまうから、おかしなことになってしまうのではないだろうか。

補って時間稼ぎをしている内に、自然治癒力で回復し治ってくる、という可能性はあるだろう。
そういう意味の自然治癒を期待するのはいいけれど、それで治すと意図するのだとしたら、それは不遜な勘違いではないか、と私は考える。

ただの補いであるならば、大量である必要もないだろう。
とりあえずそこそこの皮膚の外観と機能が得られる程度に塗ればいい。
皮膚の状態が改善すれば、それに応じて塗る量や回数を減らしていく。自然に潤うまでに回復したなら、塗るのを止めるか、あるいはかさつく日だけ塗る、としていくのが、順当ではないのだろうか。

補い過ぎの害、についても、私たちは考えるべきだ。
常に外から補われ続けていると、潤いを作る体内の機能が、働く必要がなくなり、さぼりつづけてしまうかもしれない。
本来起きるべき回復を、妨げる結果になってしまう可能性がある。
患者がもし小さい子供であるならば、潤いを作る機能そのものが、まさに成長途上である。
その成長を損なうとすれば、不可逆的な、一生涯に渡る損害となる可能性だってあるだろう。

また、この補いは人為的(じんいてき)なものだ、ということも、忘れてはならない。
私たちがしているのは、人工的に作った物を、人手で皮膚に加えている作業である。
それは決して、潤いを作る体本来の天然の仕組みと、完全に置き換えられるようには、なり得ないものだと思う。

保湿剤はどれも、皮膚の保湿成分の一部に似せてもしくは保湿作用があると知られている物を、人間が加工して作ったものであり、皮膚に本来ある成分の構造・配合そのものとは異なる。
それを皮膚に加える仕方も、外から皮膚に塗布するという形であって、体内で分泌や滲出されて出てきたものの集合体という本来の形とは異なる。

であれば、それは、体が自然に行う保湿と、完全に同じ振る舞いをすることを期待することはできない。
人間の想像や分析が至らないどこかの所で、保湿剤の主成分や添加成分や基剤溶剤の何かが、皮膚に、皮膚周辺の化学的物理的動態に、皮膚から吸収されて体内のどこかに、悪影響を与える可能性は、常に考えられる。

どんなに上手く作ったとしても、保湿剤自体が、皮膚や体にとっては、しょせんは異物なのである。
ならば、決して頼り過ぎてはならないもの、と考えるべきではないか。
やむをえない時だけ世話になり、後はできることならば縁を切っていくべきもの、と考えるべきではないか。


もちろん、強力な薬剤であるステロイドやタクロリムス(プロトピック)の乱用に比べれば、保湿剤の危険性はずっと低い。
実際私も皮膚科医としての現場で、患者の方に対して、それらとの区別をはっきり分かりやすく認識させるために、保湿剤のことを「安心して使える」とか「副作用の心配をまずしなくていい」というふうに、しばしば説明することがある。

しかし、精確なことを言えば、保湿剤にも、刺激性ないしアレルギー性の接触皮膚炎(いわゆるかぶれ)を代表に、何らかの皮膚への害作用が生じる可能性は、常にある。
少なくとも皮膚科医であれば、いつでもそのことを念頭に置いているはずだ。

そんな中で、どうして、医師が患者に過剰とも思える外用を奨(すす)める流れが生じてしまうのだろうか?。
この事態を激しく憂慮する者の1人として、その理由を考えてみたい。


推測するに、やはりアトピー性皮膚炎の難治化が、ここでも作用しているのだろう。
今までの方策では良くならない、という患者が、増えていること。
医師がそういう患者たちに対して、何かさらなる方策を提示しなければならないことが、第1の理由と思われる。

たとえ医師という賢者たちであろうと、人間の思いつくようなことには、おのずと限界がある。
治療の研究に目覚ましい前進があったり、病気の解明が一気に進んだりしたのでもないのに、見事に効く新しい方法が、次々と出てくる訳もない。

そこでどうするか。
既存の方策を、いろいろといじってみて、そのより効く用い方がないか、と探ってみることになる。
それが、保湿剤の大量投与・予防的投与となるのだろう。

けれど、私は思う。
さらなる方策が無いのなら無い、と、まず明確に伝えることが、もっともその病気に詳しい専門家としての、医師の語るべきことなのではないだろうか。

現時点での医療が成し遂げられることに、一定の限界があるのは当然だ。
しかるに医師は、それをはっきりと認めることを好まない傾向があるように思う。

私も医師だから分かるが、自分が診た患者の中で、よい結果を得た者は、思い出しても心地が良いものだ。
しかし、悪い結果の者は、忘れたかったり、認識したくなかったり、自分の治療以外に悪くする要因があったのではないかと思ったりしたくなる。
それ自体は、人間の心理として、無理のないことだと思う。
しかしもしその傾向が強いと、自分の治療の成果を、実際以上に感じてしまう危険がある。

「私の言ったようにちゃんと頑張って治療した人たちは、みんな良くなっていますよ」と、そういう医師は言うだろう。
ところがその陰には、その方法では上手くいかず、黙ってその医師の元を去った患者たちもまた、必ずいるはずなのである。

こうした医師の思い込みは、過剰な期待の幻想を、患者に与える。
そして、自分に従う以外の選択肢を患者に許さないという、医師の態度となりうる。

今までより熱心に保湿をすれば、皮膚はより潤うかもしれない。
そうして、良い状態をより長く保てるかもしれない。
アレルゲンの侵入も防ぎ、アレルギー反応のための症状を軽減させるかもしれない。

けれども一方で、本来の皮膚の機能を損なうことに、より加担してしまうかもしれないのだ。
しかもそこまでして頑張って保湿しても、それは根本的に患者の皮膚の性状を変化させるものではないから、その効果は、完全であるという保証も、どこまで続くかという保証もない。

大量の保湿剤の使用は、患者と健康保険が支払う医療費となって跳ね返りもする。
無くても済む薬の使用なのだとしたら、患者個人にとっても社会にとっても大いなる無駄であり、ただ製薬会社を利するだけになる。

そんな治療を、こうしたマイナス面を考えることなしに、医師が患者に指導してはいけないだろう、と私は思う。
行うにしても、プラス面の可能性とマイナス面の危険性をともに説明した上で、患者が望むなら行うという、治療の選択肢のひとつとして、すべきだと思う。

医師の方向性の歪みは、患者に道を誤らせる。
無い袖を振るのでなく、地に足を付けた態度こそが、こんな混乱の時代の中で、医師に望まれているものなのではないだろうか。


第1の理由が医師なら、第2の理由には、アトピーの難治化による、患者感情が考えられる。
治らない、良くならない、あるいは悲惨な病気らしい、という患者の不安や恐れ。
それは患者たちを、過剰治療に走らせる促進剤となりうる。

そんな病気になりたくない、ひどい状態になんかなりたくない。
今のうちに予防できる方法があるなら、何でもしておきたい、という心理である。

その心配のために、つるつるになった肌にも、毎日保湿剤を塗り続ける。
痒みを感じたり、患児が痒がっているようなそぶりを見せたりすれば、これこそ悪化の徴候だとばかりに、慌てて保湿剤を塗り、病気を封じ込めようとする。

保湿が有効だという情報に、患者や患者家族は振り回されている。
そうして、可愛い我が子の皮膚ばかりを血眼(ちまなこ)になって観察し、子供そのものを見ることを忘れている哀しい親の、なんと多いことか。
本人にとっても、家族にとっても、不幸なことである。

アトピーを予防したいなら、健康的な生活を心掛けることだ。
保湿は、皮膚のかさつきがひどければ、考える。
それでも病気の大波が来てしまうなら、その時に悩むしかない。
アトピーへの不安に支配されて、生活・人との交流・人生そのものを、見失ってはならないと思う。


そして第3の理由として、商業主義に言及しなければならないだろう。

製薬会社が、医薬品の保湿剤を売る。
化粧品会社が、保湿化粧品を売る。
美容関係の業者が、保湿サービスを販売する。

人為的な保湿を求めるアトピー患者は、これらのビジネスの標的となる。
患者がより多く商品を消費してくれるほど、彼らの得る収益は増す。
彼らが患者に、使用を勧めるのは当然である。

おそらくここ30年くらいに生まれた世代は、小さい頃から、身の周りに化学成分の安価な化粧品などの人工物が溢れていた。
大人にもならない内から、それらに触れ、選び、使って楽しむのが、日常であっただろう。
その分、これらの人為的な品に抵抗感がなく、無防備であるかもしれない。

つるつるの肌の赤ちゃんに、オイルマッサージを施していた母親がいた。
こんなにまで事態は進んでいると、驚かざるを得ない。

どうか気がついて欲しい。それらの人工の物どもは、昔からあったものではない。
それら無しに、2000年を超える長い間、人間は問題なく生きて暮らしてこれたのである。
今の状態の方が、異状なのだ。

商品を買う前に、
その保湿は自分や自分の子にとって、本当に必要なのか?。
それによって逆に何かが損なわれたり害を受けたりすることはないのか?
考えてみて欲しい。

宣伝に流されるのでなく、自分の頭で確かに熟考することが、消費者としてのたしなみでなければならない。
実際に使ってみて駄目だった場合に、その経験から学ぶことも、必要である。


現代に生きる患者はつらい。
医師も、周囲の人も、業者も、みんな勝手なことを言う。
治らない原因も判明してはいないのに、治らないでいる患者という存在である自分自身は、陰に陽に責められ続ける。

いったい何が正しいのか。
いったい何と何が、今の自分を、これからの自分を癒してくれるのか。
それは、患者自身が自分で、試行錯誤しつつ選び取っていくしかない。

私は、私の意見を言う。
「盲目的な保湿は、正しくないだろう」と。

2009.6.  




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