混合診療



「混合診療」という言葉を、ご存知だろうか?。
保険診療と保険外診療を、一緒に行うことを言うのだが、たぶん一般の方でご存知の方は、ほとんどおられないのではないかと思う。

日本では、全ての国民がいずれかの公的医療保険に加入する、「国民皆保険」が実現されている。
そのため、病院や診療所で医療を受けた際、患者がその場で支払うのは、かかった額の3割(高齢者などは2割)で、残りは保険から医療機関に支払われる。
誰もが、適切な医療を無理のない負担で受けられるための、非常に優れた制度だ。

公的医療保険の対象となる治療は、誰でも受けられるべき治療であるから、充分な有効性と安全性が広く認められたものが選ばれており、その範囲は厳密に定められている。
いわゆる「保険がきく」治療である。

こうした「保険がきく」治療と「保険がきかない」治療の、両方を併用するのが「混合診療」であるが、これは、現在日本では認められていない。
どうなるかというと、混合診療になった場合は、保険診療分も保険が適応されず、患者が全額を支払わなければならないことになっている。

しばしば問題にされているのは、日進月歩の癌の最新治療の場合だ。
開発されて間もない保険未承認の癌治療を1つでも受ければ、それ以外の診察・検査・治療代が全て自己負担になる。
その不条理さから、特定療養費として早期に積極的に認めていこうとする方向性も打ち出されているが、それでも追いつかない部分も当然存在する。
「可能性があるものならば何でも試してみたい」患者にとっては、不都合に感じられる制度なのだ。

混合診療が認められない理由とは、何か。
適切な治療を、保険適応という形で常に明確にし、誰もが均等に受けられるようにしようという考えが、そこにあると思う。

有効性と安全性が充分な治療は、保険適応にしていくべきである。
保険外でも受けられる、となれば、保険適応になるのが遅れるとか、保険適応から外されてしまうということが、起きるかもしれない。
患者は、その治療を受けるのに、より高額を払わなければならないことになるし、それが払えなくて受けられない、ということにもなりかねない。

こうした考えは、無論のこととても大事で、日本の、均等で高水準な医療の維持に、貢献しているものであろう。

それでもその一方、この「混合診療の禁止」とは、おそらく現在の日本の多くの一般の医療消費者にとって、ぴんと来ないものなのではないかとも思う。

誰しも、自分にとって良いと思われるものは受けたい。
保険がきこうがきくまいが、である。

保険がきけば「安く受けられて助かる」ことにはなるだろう。
しかし逆に、「保険がきかないから受けられない。」まして、「保険がきかないものを受けるなら、本来きくものもきかなくなるよ。」と言われたら、「え、何で?。」となるのが、むしろ普通の感覚ではないだろうか。

個人の価値観は今日、非常に多様になっている。
保険の範囲の治療で楽に治癒する病気なら、もちろんそれでいい。
が、そう簡単でない病気や、あるいは病気とも認められていないような苦痛に悩む者は、保険診療のみならず、それ以上の何かをも求めるだろう。

安全性や有効性に必ずしもまだ保証のない治療であっても、充分な情報が得られ、そこに可能性を見出すことができれば、自己責任と承知の上で受けるという選択は、決しておかしなこととは思われない。

かつて私も、温泉湯治でアトピーを改善させようとしていた頃、温泉宅配業者紹介のクリニックで、診察を受けたことがある。
湯治中の患者ばかりを診ているそこでは、混合診療にならないようにとの配慮などからだと思うが、全て保険外診療の扱いであった。
アレルギーチェックの血液検査をしたら、通常3000円程度のところが、10000円を超える支払いとなり、「これではたまらない。」とそれきり行かなかった、という経験をした。

混合診療が解禁されるべきかどうかについて、私は、具体的な強い主張は持っていない。
ただ、現状はこうである、という解説をしたくて、これを書いている。

実際には、別々に受ければ、保険診療も保険外診療も受けられる。
だから、それでいいとも言える。

ただ、その2つが、区別されているものだと、理解してほしいと思う。
その意味する所は、保険診療はお墨付きの付いているものであり、万人に有用と考えられているものであるが、保険外診療は、そうではない、ということだ。

私は、そのどちらにも興味を持ち、どちらも大事だと思っている。
そして、どちらもを日々治療者として用いる中で、その2つが異質で、違う姿勢で臨まなくてはならないもの、というふうにも感じている。

一部の医師や治療家たちがすでに志しているように、この2つが、混合などという半端な言い方でなく、「相補(互いに補完)」する治療として、みなに自然に受け入れられる日がいつか来るだろうと、私は、予想し期待している。
しかしそれまでには、まだかなり長い時間が必要だろう。

私たちは、1人1人が賢明になり、自分にとって必要なものを選び取っていかなくてはならない。

2009.11  

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