医療にたかるな





新聞の投書を読んで、暗澹(あんたん)たる気持ちになった。
なんと人は際限もなく、医療に要求するものなのか、と。

10月7日付朝日新聞投書欄のトップに掲載されていたのは、
「老人科のある病院を増やして」
87才のご父君が骨折して整形外科に入院中、日曜の朝食で誤嚥(ごえん)して肺炎を起こし、息をひきとられた。
投稿者は「高齢者ならではの総合的なケアが受けられる病院に、父を入れるべきだったのでは」と思ったそうだ。
そして、老人科のある病院が増え、患者に一番合った医療を提供してほしい、という主張だ。

一見、とても建設的な良い主張に見える。
一般の方がこれを読むと「なるほど、まったくそうだ」と思うのだろうか。
私は「そうだ」と思わなかった。そして、おそらく医療関係者や介護経験者であれば、同じように感じたのではないかと思うので、その思考を書いてみたい。


確かに外来診療で長く経過を診る場合、多くの科の病気を抱えている年配者なら、別々に診察を受けて薬がどんどん増えていったり、他科の病状がわからないまま診察されたりするより、1つの老人科で全体として診てもらえた方がいいかもしれない。
診る医師のほうは広範囲な病気の知識を持っていなければならないから大変だけれど、できないことはない。

近年増えている老人科、老年科、老年病科などはまさしくこのように、高齢者の特性をふまえ、高齢者に多い病気に重点を置いて、高齢者を包括的全人的(全体的)に診ていこうとするものだ。

だが、骨折となればどうだろう。
診療の中心は、当然整形外科医であるべきではないか。
脳梗塞だったら脳外科で手術と入院をし、心筋梗塞だったらCCU(心臓血管病の集中治療部)や循環器科が診療にあたるように。
病院に行った日に「老人科の病棟に入院です」と言われたら、果たしてこの方は「良かった」と安心できただろうか?

骨折の治療に長けた整形外科に入院されたのは、必然であり、むしろ幸運である。
たとえば行った病院に整形外科医がいなくて、手術が必要だけどここではできない、などとなったら?
それこそ悲劇だ。

仮にその病院に老人科があり病棟もあったとしても、大きな骨折の急性期であれば、おそらくそこに入院とはならない。
医師も看護師も、骨折の治療に慣れた者がつねに見守るのでなければ、遅滞なく良い治療はできない。
日々の骨折の診察や処置の度ごと、老人科にいる動けない患者さん個々人のベッドサイドまで、整形外科から専門医が器具一切を持ち運んで往診して廻る、と考えるだけでも、どれだけ非合理的かわかるだろう。

頭も胸もお腹もお産も骨折も、何でも手術できる医師がドラマでは出てくるが、それを現実と勘違いしてはいけない。
総合診療医はどんな科の病気も知っているかもしれないが、診断がついたら必要に応じ、適切な専門家に治療をゆだねていくのが現実だろう。
どんなに努力しても、医療のすべての分野の専門家になることなどできない。
1つ1つが年余にわたる修業を要する熟練技なのだから。

同じことは、入院病棟についても言える。
1つの科で、1つの病棟で、スタッフも器具も能力も、何もかも全てをそろえてもらえると期待するのは、患者の幻想なのである。


さらにこの投稿者は、もう1つの幻想を医療に抱いている。
完全と永遠という、幻想。
病院に入院したからには、完璧な治療と手厚い介護を受け、 必ず良くなって元気に退院して来るのが当然、という期待だ。

大切な家族にいつまでも生きていてほしいという願う気持ちは、間違いなく美しい。
しかしそれでも、「いつまでも」はあり得ないという事実を、正しい理性を持った人間ならば、理解できなくてはならない。

人にとって病は逃れきれない性(さが)であり、人体の機能は年を重ねるごとに衰え、いつか必ず死を迎える。
医療はその過程を遅らせられることもあるが、完全に阻止することはできない。

できる限り良い姿勢で食事をさせたとしても、飲み込む機能の衰えた高齢者が誤嚥を起こすリスクは、常にある。

その不確実性すらも許さず、100%治すための限度ない努力を医療従事者に強いるのは、自分たちだけが永遠に生きたいと願うのと同じ、無茶な望みではないのだろうか。


そしてもう1つ、私が最もやりきれなく思ったのは、この投稿者が「高齢者ならではの『ケア』」というあいまいな言葉を使うことで、高齢者の介護問題を医療問題にすりかえ、介護の責任を医療に押しつけていることである。

「ケア」を日本語にすれば、"世話"、"看護"、"介護"、"養護"。
おわかりだろうか? "医療"ではない。

その方は骨折のため慣れない姿勢で1人で朝食をとっていて誤嚥を起こしたというのが、投稿者の心残りのようだ。
だが、保険診療の病院で、まがりなりにも1人で食事が摂れる高齢者の1人1人全員に、職員が3食つききりで見守れる所が、いったいどこにあるというのだろう。
全国どこを探しても、ないに違いない。

医師はもちろん医療に忙しく、看護師は医療の補助と最低限の日常の世話で手一杯。
投稿者は病院が手配するヘルパーでも想定しているのだろうか。
保険診療の収入だけでやりくりしている病院に、特別養護老人ホーム並みの介護を望むのは、無理な話だ。

高齢者は飲み込む力が衰えていること、そのために食べ物が詰まったり、間違って気管に入って肺炎を起こしたりしやすいこと、だから上体を高くして食事するのが望ましいこと。
これらを知らない医療者や介護者がいたら、もぐりである。
なにも老人科専門家にご登場願うまでもない。
骨折の状態からみて、どういう姿勢ができるか、良いかという判断なら、むしろ整形外科医こそが適任だ。

つまり、この件が残念な結末を迎えたのは、医療レベルが低かったからではない。
人体の年齢相応の衰えと、それを上回るだけの介護を提供しきれなかったことが原因だと私は思う。

骨折のために理想的な食事姿勢をとれない。
いったん起こしてあげても、筋力が衰えているため、姿勢が崩れてきたりする。
そんな方のケアはどうするか。

自分で食べにくいなら、誰かが食べさせてあげる。
1さじ1さじ、かんだ後きちんと飲み込み終わるのを待ちながら。
姿勢が崩れてきたら、体を支えたりベッドやクッションの調節で、起こしてあげる。
老人医療の専門家でなくても、誰にでもできること。
ただ、手間と時間がものすごくかかるだけ。

敢えて言うなら、それほど心配で手をかけてあげたいなら、
日曜の朝から家族が病室に来て、手ずから毎食、食べさせてあげればいい。
それができないで、他人にすべての面倒をみてもらっていて、
感謝よりも不満を口にするとは。

精力を傾けて治療と介護をしていたであろう整形外科病棟のスタッフが、 気の毒でしかたがない。

高齢者の介護にはマンパワーが必要だ。
保険診療の医療の場には、痒い所に手が届くような介護を提供できるほどの余裕はない。
きっと投稿者も、そのことをどこかで感じているのだろう。

だけど、たとえ「老人ならではの総合的なケア」というふうに看板を掛け替えたところで、ない袖を振ることはやはりできない。
この方の願いは、ないものねだりなのである。

誰でも安く適切な医療が受けられるのが、日本の国民皆保険制度のいいところ。
限られた財政の中、進歩し続ける医療にも、増え続ける高齢者にも対処している、世界的にも優秀な医療だ。

だけどそれにも限界がある。
この投稿者のように、際限ない要求をしてくる者が増えれば、いつか医療従事者たちへの負荷が容量の限界を超え、医療制度自体が破綻してしまうだろう。

そうなったら、今のように適切な骨折治療も受けることも、かかりたい病院にかかることも、病気になってすぐに入院することさえ、できなくなるかもしれない。
それでもいいのだろうか?

私は医療者だから、医療を守りたい。
だから一般の人たちに、心得違いをしてほしくない。
この投稿者が言う意味の「老人ならではの総合的なケア」というものは存在しない。
「自分でない誰かが、どんな高齢者も完璧に世話してくれること」という意味だから。


どうか忘れないで。
どんなに医療が進歩しても、人はいつかどこかで必ず死すべきもの。

現代では、その死の時に病院にいることが多い。
だから、病院にいる間にもっとこうでなくてああだったらと思いたくなる気持ちはわかる。
死者を悼む思いが強いほど、その気持ちも強くなるかもしれない。

けれどそれは、遺された者たちが、死を受け入れる過程なのである。
当初はあきらめきれないのが当然で、あらゆる果てない思いを巡らせる時間の経過のうちに、いつしかその死を消化し、先に進んでいく。

医療を、死を受け入れない口実にするのは、ご勘弁願いたい。
これはとがめられるべき医療ミスではない。
家族は入院させ、スタッフは医療とケアを行ったが、残念な結果となった。
完璧ではなかったかもしれないが、皆ができる手を尽くし、患者は長い人生の幕を閉じたのである。
遺された者たちがすべきことは、彼(か)の人の人生を振り返り、送ることだ。


こういう内容が投書欄のトップに選ばれ、世間一般の人の共感を呼ぶのだとしたら、ほんとうに怖い世の中だと思う。
「絶対失敗しない」医療・介護しか受け入れない患者と家族たちは、医療と介護を潰していく。
それでもよいなら、お好きにどうぞ、と言うしかないが。



2014.10.19.   





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