恨みに生きる勿(なか)れ



医療を巡る時代の空気がとげとげしているのを感じる。

ここ20年ほどのあいだ、医療の内容の一般公開がどんどん進んできた。
医療漫画、小説、ドラマ、映画、テレビバラエティ、そしてウェブサイトと、あらゆる情報伝達や創作の媒体(ばいたい)で。

私が子供の頃には、医師がどんなことを考えて診断や治療をしているのか、普通の人がうかがい知ることはできなかった。
医療の世界を一般の人が見られる機会としては、それこそ手塚治虫の漫画「ブラックジャック」があるくらいだったと思う。

それが今では医師の紡(つむ)ぐ医療物語も多くみられ、最新の病気や治療の詳細な情報までもが、テレビやインターネットで容易に誰にでも手に入るようになっている。

かつて、アトピージプシーという言葉があった。
アトピー性皮膚炎が治らないので、患者が次々と医師を替えて渡り歩くことをいう。
この言葉は最近それほど聞かれなくなったが、情報公開が進むことで患者は主治医を見つけて落ち着けるようになったのだろうか?

日々の診療の印象として、あまりそうは思えない。
複数の医療機関を受診されている方は今でも多いと見受けられる。

ただ、各病院・医院のホームページや口コミサイトなどで、事前検索することが可能になった。
よって患者の方は手当たり次第に受診するのでなく、より的を絞って自分の希望に沿いそうな所を受診する傾向になってきていると思われる。

それでも、その自ら希望して受診した医師を見限る。
実際に受診してみたら、期待は満たされなかったのだろう、あるいはもっと希望が満たされる所が他にありそうに思えた。

そんなふうにいろいろ試して、満足できる所に行き着けるならよいのだろうが、問診票に全部書く気もしないほど、果てしなく彷徨(さまよ)い続けている人たちも少なくない。
彼らが漂い続ける理由はなぜ?と考える。

その理由の筆頭はおそらく、「治らない」から。
現在の医学においてアトピー性皮膚炎の確実な根治療法はないのだから、遅かれ早かれまた症状が出てくる。
そのときに、「前かかった所では治らなかったから、また別の所に行ってみよう」となる。
そこに「今度は治るといいな」という期待がほの見える。

次いで「現在の症状が改善しない」や「治療の副作用が心配」。
定期的に通院しなければ、薬が切れて症状が表面化する。
ひどいときは薬で抑えきれないこともある。
強い薬であれば相応の副作用の懸念があり、医療費もかかるし、自然治癒を妨げるという声も聞こえてくるしで、際限なく使えるものでもない。
逆に副作用を避けたくて薬を使わなければ、症状を隠せないから、ひどくしないためのさまざまな別の方法を、模索しなければならなくなる。
どんな治療をしていても、悩みは尽きない。

さらに、「説明が不十分」「話を聞いてくれない」「ハラスメント言動があった」「好きになれない」などという感情的な問題もあるだろう。
薬の管理など治療過程の説明をきちんとするのは医療側の義務である。
「これ付けときなさい」だけで終われば不満に思っていい。
症状の経過も、医師は問診で確認すべきだ。
ただ、その人の人生まるごとを医師が把握することはできないのだけれど。
病んでただでさえ不安なときに、ひどいことを言われるのは確かにきついし、医師など医療者とどうしても相性が合わないこともありうる。

だがどんな形を取っていたとしても、どの幻滅も結局は「現代医療でアトピーが根治できない」ことに帰着するのではないだろうか。
診てもらっても、通っても治らないから、患者は別の医師を探し求める。

治療というものはすべからく人体に何らかの作用を加えるものであり、良い結果を生み出せる可能性のあるものなら、逆に不都合な結果を作る可能性もある。
だから医療者は、必要にして十分と思われることを行い、その効果や問題点の経過をみながら、対処を修正して最善の効果と最小の副作用を狙う。

軽快が得られるまで、医師と患者はこの努力を続けなければならず、もちろん両者とも安定や安寧の日々を目指しているのだが、努力していれば間違いなくそれが得られるという保証はない。
これは大変にストレスフルなことだが、残念ながら事実である。

患者が医療機関に求めているものが、「決して副作用の起きない薬」や「すぐにしろゆっくりにしろ、自分のアトピーが必ず快方に向かう治療」であるとすれば。
患者が医師に求める説明が「ぜったい副作用の起きない薬の使い方」や 「いつ自分のアトピーが良くなるかという見通し」だったとしたら。
どんな卓越した医師であろうと、その期待に応えられることはない。

治らなかったり、思うように改善しなかったりという経過から来るストレスに、患者は日々さいなまれている。
症状の苦痛、それによる生活の困難、周囲の無理解などによる社会関係のきしみが、鬱屈(うっくつ)として果てしなく降り積もっていく。

だが、病気について泣き言を吐き出せる場というものは、実はそんなにない。
職場ではむしろ無理してでも頑張らなくてはならないことが多いだろう。
家族や友達はある程度まで聞いてくれるだろうが、そういつもいつもとはいかない。

だから患者が診察を受けに行くとき、病気にまつわる苦悩を吐き出し、悩みを解消したいという希望を持つのは自然なことなのかもしれない。
かつて病院で大勢の脱ステロイド患者たちを診ていた皮膚科医師が(正確な文面は忘れたが)「患者はここに涙を捨てに来ている」という意味のことを書いておられた。

最近は標準的治療をする皮膚科でも、患者のメンタルケアの重要性が言われるようになっており、診療ガイドラインにも1項が割かれている。
だがその内容を見ると、精神的ストレスによるアトピーの悪化を考慮するのみであり、病気にともなうストレスは考慮されない。

患者の言葉を傾聴する姿勢が大事と、言うは容易(たやす)い。
だが悩みを聞くというのは、聞く者の時間と精神を消費する作業である。
メンタルクリニック付属のカウンセリングですら、時間や回数の制限がある。
体の治療が主目的の医療の現場で、1人1人の心や社会の問題に長時間を割くことを患者が期待するとしたら、それは無理な相談だ。
本来業務が回らなくなり、医師が負担で倒れることになる。

誰もが治せない病気を医師が治せなかったとして、それはその医師の落ち度だろうか。
治せない代わりに、患者の生活や精神の安定に責任を持つべきなのだろうか?
そうではないだろう。

医師もまた、唯我独尊に陥るのを慎(つつし)まなければならない。
大多数の患者のアトピーを軽快させて2度と出てこないようにできる方法が生まれるまでは、唯一の正解というものはないのだから。
ステロイド外用は薬害ではないし、ステロイドを使いたがらないのが恐怖症でもない。
それぞれの者がそれぞれの立場で、軽減に向けた努力をするしかない。

前の医師のやり方を否定するのは、そこに通っていた患者の日々の否定にもなりかねない。
間違った治療で時間を無駄にしたり、悪化させたりしたと思わせられれば、患者の苦悩はより深くなる。

・・・こうしたことをつらつらと書いてきたのは。
医療への不満を口にする患者の方が増えていると感じる年だったからである。

医師が今までの治療を「そんなんじゃだめだ」と言うように、今まで行っていた病医院への不平を語る人がいる。
どうしてくれると攻撃的に迫る人がいる。
いつ治るのかとすごむ人がいる。
ときには、それらの恨みを糧(かて)に生きているのではないかとさえ、思われる人もいる。

だけど、これまで書いてきたように、その人たちの鬱憤(うっぷん)は快癒や安定が得られるまで、誰にも収められないものなのだ。
たとえ医師に長い時間かけて話を聞いてもらい、いくらか気持ちが落ち着いたとしても、「本当にその医師が言うように私は良くなっていけるんだろうか」という不安は、すぐ帰り道にでもむくむくと頭をもたげるだろう。

どうか、と祈るように私は思う。
どうか恨みに生きないでほしい。
怨嗟(えんさ)の不毛を感じてほしい。

患者と医師は敵ではない。味方であり同志のはずだ。
同じ困難に立ち向かう者として、悪意ではなく善意を向け合うことができないか。

けなし合いが産むものは何もないと私は信じる。
患者が医師に不合理に傷つけられたと感じているのと同じように、医師もまた不合理に患者に責められて傷ついているかもしれない。

病に体の自由を奪われたとしても、心の自由まで奪わせないことは誰にでもできる。
そうした軽やかな心を持つ患者の方に、来年もたくさん出会っていきたいと思っている。

来るべき年への期待を胸に。
どうか良いお年を。

2015.12  

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