紅皮症へ   



かろうじて保っていた「人並みの生活」が、終わりを告げた。


私の電話を受けて、電車でとんで来てくれた母に、身の回りの物を荷造りしてもらい、夫の了承を得て、その日のうちに私は、母と娘とタクシーに乗って実家に向かった。
もう何をする力もなかった。生活の全てを、母に援助してもらうしか、生き延びる方法はなかった。

仕事のある夫を単身マンションに残し、私と娘は実家で療養生活を始めた。
夫は週末娘に会いに来ることになった。私がするのは、風呂場の掃除と、娘との添い寝くらいで、あとは一切の家事を母に委ね、寝て過ごした。

風呂は、もう温泉は減らして打ち切り、温泉成分の粉末入浴剤だけになっていたので、それを続けた。
長時間入浴はとうてい無理だから、入浴時間は普通なみに減らしたが、出てから時間が経つと乾燥と痒み痛みでいてもたってもいられなくなるので、朝晩1日2回の入浴は、どうしても必要だった。

人には理解しにくいだろうが、私にとってそれは、雨が降ろうが槍が降ろうが、1日たりとも欠かして生きることはできない生活の必須行事だったのである。

(余談だが、こんな自分の状況を通して、阪神淡路大震災の時の重症アトピー患者の苦労は、察するに余りあると切に感じた。)


「疲れが取れれば何とか回復できるだろう、3か月か半年くらいしたら、もとの暮らしに戻れるだろうか。」そんな予想のもとに臨んだわけだが、現実は思っていたより遥かに厳しかったのだ。


手の膿疱と身体の毛膿炎はほどなくよく治まったが、おおもとのアトピーの方は、少しも改善しなかった。痒みも痛みも激しく、何もできない毎日だった。
さすがに一日中横になってもいられないので、午後は起き出して居間に座っていたが、寝室と居間と風呂の間を移動するのがやっとで、二階への階段を登ることさえできなかった。

大怪我や死病でもないのに、かくも情けない仕儀に陥ることがあろうとは・・!。ただただ驚くばかりだった。

夫が来た日、少しはもてなさねば、と、ともに庭に出た(1カ月振りの、外の空気だ)。ところが5分もしたら具合が悪くなり、慌てて中に入った。見る間に蕁麻疹がどっと出て、横になって唸るしかなかった。

どうやら自分で思っていたより、私の身体の具合はずっと悪いのだろうか。
嫌な予感がした。


娘のアトピーはこの頃大分ましになってきてはいたが、発疹はまだ全身に広範に残り、夜はかなり痒がり、一晩に4〜5回目覚めて、1時間くらいそのまま寝つけなかったりした。語りかけ、歌を謳い聞かせ、眠れぬ夜を共に過ごす。
楽ではなかった。


実家が水道局に近いこともあり、水道水の塩素が気になるようになった。
肌の乾燥がかなり強く、実家に戻ってからさらに強くなったようでもあり、軟膏を塗っていてもかなりしんどかった。

風呂の湯は24時間風呂で、数日ごとに浴槽を洗い交換していたので、溜め置きの湯では塩素の影響は薄れると考えられたが、シャワーは、新鮮な水道水を直接身体に当てる。
身体を豊富な水のベールで覆っていないとたちまち痛痒さが強まるので、シャワーから離れられず、30分も浴びていることもある状態だった。

シャワーによる皮膚の乾燥を防ごうと、脱塩素シャワーヘッドを購入した。
肌に当たる湯の感触が明らかに柔らかい。
フィルターを通るために水圧が減少しているだけなのかもしれないが。いずれにしても、皮膚の乾燥のつらさは、いくらか和らいだ。

夫に話すと、当時脱塩素シャワーがまだあまり市販されておらず、購入した先がオムバスだったためだろうが、「そんないい加減なもの」と、鼻先で笑われた。

典型的でない治療をしようとする者が周囲から理解を得ることの難しさが、段々分かってくる。

この頃話題になっていたシジュウムを、皮膚科でも使っていると人に強力に勧められ、断り切れず、(このひどい状態が、ひとつの薬草を飲んだくらいでどうなるものとも思えなかったが)購入し服用したこともある。

反応は裏目に出て、1回服用後1時間くらいで、痒みと赤みが急激にひどくなり、うずくまって唸り、それきり飲むのを止めた。
勧めた人は不機嫌だったが、とても、もう1回でも飲む気にはなれなかった。


休養に努めているにも関わらず、身体も皮膚もひどいままだった。
闘いは終わりに向かうどころか、想像もできないような、長い長い迷宮に入り込もうとしているところだったのだ。

実家に戻っておよそ3カ月後、そのことに気付かざるをえない時が来た。


ふと見た腕が、赤みを帯びていた。
膨らんでいる所が赤いのでなく、基底の平らな皮膚が、広範囲に濃い赤色を呈していた。
それは日ごとに次第に拡がり、やがて(顔・頭・手のひら・足を除く)全身の皮膚が真っ赤になって行く。
何ということだろう。これは「紅皮症」ではないか!・・・。

それは皮膚科の病名だが、皮膚が広範囲に隙間なく(間に健常皮膚を残さず)赤くなった状態で、湿疹やその他の皮膚の病気が悪化した結果生じる、最重症の状態である。

皮膚科でしばしば入院適応となる病気の状態であるが、非常に難治性で、私は自分の皮膚科医としての経験の中で、慢性湿疹(アトピーを含む)から紅皮症になった後、すっかり治った患者さんを、1人として見たことがない。

もとの病気から紅皮症になっていく途中の経過を見たのははじめてで、これはとても貴重な経験であった。
(なるほどある日突然いっぺんに真っ赤になるのではなく、少しずつなるのか、などと感心したりしていた。)

しかしこれは大変なことだった。

さて、これから私の人生はどうなってしまうのだろう。
この、赤坊主の肌から、生きている内に逃れ出ることはできるのだろうか?。
ともかく長期戦を覚悟しなければならない事態になったことだけは確かだった。

痒みは相変わらずとてつもない。ひどくなるばかりだった。

湿疹による紅皮症の患者さんを治療した経験を思い出してみると、外用ステロイドが、かりそめの一時的軽快か、気休め程度の効果しかあげられなかった、挫折の記憶しか思い当たらない。
ますます、症状を抑える薬でどうこうできる段階を越えてしまっている、という思いが強くなるばかりだった。

逆にもし私が皮膚科医ではなくて、ステロイドを外用した場合のその後の経過を想像できる経験を持っていなかったら、多分この時点で、少なくとも1回は医師を訪れ、説得されるか叱り飛ばされるかして、ステロイドを外用していることだろう。

具合が悪い時は心も弱くなる。自分で決めることが難儀になるし、強いものに頼りたくなる。助けてくれるなら、鬼にでもすがるかもしれない。
そんな時に、自分の判断力を保ち、自分なりの考えを貫き続けるのは、容易なことではないだろう。

よい治療法のない病気の患者であるということは、本当にしんどく大変なことだ。
まして医師の勧める治療法に、異を唱えようというのなら・・。


さて、ひとつ、この時点までに明らかになってきた悪化要因があった。

実家に戻って来るまでは思いもよらないことで、かつ大変悲しいことであったのだが、週末夫が来て帰った翌日、私の症状は明らかに悪化した。
来れなかった週はその悪化は見られなかったから、因果関係は明らかだった。

振り返って考えてみると、夫と結婚した時から、考え方の違うことは分かっていた。
しかし、他人なら違うのが当たり前だし、相手に合わせていけばきちんと上手くやっていけるものなのだろうと私は考えていたのだ。だがそうではなかったようだ。

二人の考え方の齟齬(そご)は、私が考えていたよりも根本的なもので、相手に合わせていた私は、自分の一部を失って行っていたと思う。
さらに私の長引く体調不良は家庭生活を損ない、齟齬を増幅した。

私と夫は、共存できなくなっていた。私たちは離婚した。

興味深いことは、この致命的な齟齬を、共にマンションで暮らしていた時の私は全く意識していなかったということである。
夫と一緒にいるということは、考える余地のない当然の大前提であって、まさかそのことが自分への精神的ストレスになっているなどとは、思ってみたこともなかった。
しかし今思い返して見れば、みぞおちに重くのしかかった幾多の夫との会話や出来事が思い浮かぶ。

なるほど心身症とはこうしたものなのかと思った。

よく仕事や人間関係がストレスになるというが、精神的ストレスの中には、「ああ、ストレスだなあ」と当人が自覚できているストレスの他に、当人が意識していない、その存在に気付けていないストレスというものがある。
そして、実際にはこの後者の方がより問題を起こすのだ。

無意識下に「抑圧された怒り」が、血管をコントロールする自律神経系・内分泌(ホルモン)系の働きを介して血流を損ない、身体を障害することをJ.E.サーノは語っている。
心身症とは、心理社会的要因に基づき、発症ないし悪化する、身体の病気全般のことである。その多くが、あるいはこうした機序により起こっているのだろうか。

私の、全く意識に上ることのなかった対夫の精神的ストレスは、まさにこの抑圧された怒りというべきものであった。
その増強は、身体の悪化の経過と一致している。
怒りの存在に気付き認めることにより、それは解放されるという。

それは心の苦痛を誤魔化すための代償行為なのだろうか、あるいは心の問題を知らせようとする身体のメッセージなのだろうか。
どちらでもあるような気がする。

とにかく怒りは抑圧してはいけない、我慢して溜め込んではいけない。陰性の感情は、否定されがちなものだが、人間である以上それを抱くことは止められないのだ。解放しなければ、それは行き場を失い自らの身体を攻撃する。

それに人生の道はひとつではないのだ。その行き詰まりは、軌道修正の必要だと教えてくれるためのものかもしれない。
一度決めた考えに知らず知らずの内に固執していても、深い所の意識や身体は、その人の行くべきでない道により早く気付くことができるのだ。

このことは、私の処世術としての大きな教訓になった。


さて、離婚した私のアトピーは、いくらか落ち着きを見せたものの、それで見る見る良くなったりはしなかった。
IgEもいったん2500IU/mlほどに下がったが、冬の訪れと共にかまた上昇をはじめた。

既に温泉エキスの入浴剤を使うのも止めていたが、この頃を最後にオムバスには完全に見切りをつけ、カウンセラーとの連絡も終わりにした。

ここからは持久戦となる。


・・悪化から、2年5カ月が経過。







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