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[人はどこまで病気を治せるか?]




 ー何故に病気とは、しばしば治り難いものなのだろう?・・ー


現在テレビ放映中の創作ドラマ、「オルトロスの犬」の主人公は、
「手で触れるだけで、瞬時に病気を治せる」
という能力の持ち主である。

どんな病気も治せるのかと聞かれた時、この主人公はこう答える。
「いや、保険診療だけだ。」と。
あまりの面白さに、私は思わず吹き出してしまった。

交通事故で瀕死の重傷の子供たちでさえ、彼はたちどころに健康体に回復させてしまう。
女主人公の娘ーみお(澪)ちゃんです(笑)ーが喘息で、これを治す治さないで駆け引きが展開されるのだが、保険診療なのだったら、喘息を完治はできないよね?。
保険適応の西洋医学治療は、症状に対処するものなのだから。

そんな意地悪な突っ込みを入れながら、ドラマ自体は空想の産物、楽しんで見せてもらっている。

こんなドラマが作られ見られるのは、
「手を触れるだけで病気が治ったりしたら、どんなにいいだろう!。」
と夢見る気持ちが、きっと誰の心にもあるからなのだろうと思う。
もちろん私も、人一倍強くそう願う1人である。


また、ある製薬会社が、「病気から学んだこと」というテーマのエッセイを募集している。
有名人のサンプルがいくつか広報されているのだが、その人が病気だったなんて知らなかった、と思う人が多く、意外に感じた。

病気の時は社会的活動をせず、家か病院にこもっているのだから、それが他人に知られていないのも、当然と言えば当然ではある。
でも、むしろその時私が再確認したのは、
「誰でもどんな人でも、病気というものをするのだな。」
ということだった。

何の病気もせずに、一生を送れる人はいない。
有名人であろうと、屈強なスポーツ選手であろうと、病気が特別に見逃してくれたりはしない。
人間である以上、きっと誰にとっても、病気というものは、身近な存在なのだろう。


そんな中でも、今や現代の難病の1つである、重症のアトピー性皮膚炎。

かくいう私も、ようやく快方に向かっているとはいえ、かれこれ20年近くもこの病気の激しさに悩まされている。
人生の中で最も活発に働くはずの時期を逃したまま、いつの間にか中年も後期にさしかかっていることに気付く。

病気の苦痛・焦り・不安・恐さ・情けなさ・恥じ入る気持ち・・・。
それら一杯の感情を抱えて、日々を耐えつつ生きている。

このサイトの開設時に私は、「人並みのきれいな皮膚になれなくても、こだわるまい。」という心構えを、皆さんに向けて書いた。
その気持ちに全く嘘はないが、同時にそれは、「治らない」という現実を受け入れなければならない嘆きの、裏返しでもある。

できることならば、やっぱり治りたいのだ。
「しっとりきれいな皮膚に。」とまでの贅沢は言わないけれど、少なくとも、ふだんアトピーに煩(わずら)わされずに生活できるくらいになれたら、どんなにいいか、とはいつも思う。

宿命と思い定めながら、宿命としてあきらめきれない自分がそこにいる。
人間として生きるゆえの業(ごう)だろう。
枯れた悟りに到達することなど、できはしない。


病院に診療所に、日々診察を受けに訪れる、病気の人たち。
私は、職場であるそこで、彼らと語り、眺め、またすれ違う。
みなが、治りたくてここにやって来ているのだ、ということを強く感じる。

体調不良のつらさと、その心配。
自分の体に起こっている異常は、いったい何故なのか、何なのか、どうしたらよいのか、それは果たして治るのか?。
ここに来れば救いがあると思って、やって来る。

確かにそこでは多くの救いが提供されるが、時にはそれがないこともある。
或いは、ある程度の救いはあるが、完全な救いはないこともある。

医師として患者さんを拝見する時、私はいつも、いつかこの人がここに来なくてもいい状態になることを指向していると、前にも書いた。
ところがその希望は、必ずしも、叶うとは限らない。

ずっと医師にかかり続けなければならない人もいるし、医師も患者も努力しているのによくならない人もいる。
現在の医療レベルで治せない病気は、もちろん沢山あるし、治療以前の診断でさえ、満足につけられないことだってあるのが、現実だ。

患者は医学に無限を求めるかもしれないが、医師の力は残念ながら、有限である。
それでも、「何とかしてもっとより良く治せないものか。」と、日夜あがいているのが、医師たちというものだろう。

あきらめないで、あがき続けたい。

手で触れるだけ、のような「棚からぼた餅」な治癒が、あったらいいけれど、そんなものはきっとどこにもない。
簡単に治せる病気であるなら、どこかの誰かが、とうの昔にそれを成し遂げている。

いったい、患者の体の中では、どんな現象が生じているのだろうか?。
健康な人と違うことが、何かしら必ず、起きているに違いない。
病気ごとに、そうして、人によってアレルゲンが違うというのなら、さらにその人ごとに、何か違ったことがきっと、その体の中で起きているはずだ。

どんなに複雑であろうとも、そこには何らかの起きている機序があり、であるならば、それを逆に辿(たど)れる方策もまた、何かしらありうるのではないか?。
ーそう私は信じ続けている。


さて、最近、またカイロプラクティックの勉強に熱を入れている私が、頻繁に見て参考にしている、ある解剖学アトラスがある。
全篇が、実際の屍体を解剖し展開した写真で構成されている、ハードカバーで大判の重厚な本だ。

医学生時代の若い私には、実はこのアトラスは「豚に真珠」で、衝動買いしたきり、ほとんど見ることもなかった。
人体内の構造を初めて覗かせてもらい、新しく知る構造の名前と場所をとりあえず確認し、覚えるので精一杯だった若造には、簡潔な絵で書かれた携帯版のアトラスが、お似合いだったのだ。

当然のことながら実際の人体では、骨、筋肉、靭帯、血管、神経・・といった、あらゆる構造が複雑に絡み合って存在している。
それらをいっぺんにごちゃ混ぜに見せられても、到底理解が追いつかなかった。

しかし今は、その複雑さが心地良い。

何本も重なり走る筋肉が、それぞれ骨の中の決まった場所を与えられてそこに付着し、適切な各々の動きを果たせる方向に伸びている。
いくつもの内臓が、互いに重なり合い、場所を分け、膜で仕切られたりしながら、胸腔・腹腔・後腹膜といった限られた空間に、見事に納まっている。
さらにそれらの間を縫うように、血管や神経が無駄なく配置され、隅々にまで栄養と脳の命令を行き渡らさせ、排泄も担っている。
支えるだけの単純な構造と思われがちな骨でさえ、想像を超えた入り組んだ形と配置をしており、それがまた実に合理的で、細部の構造に至るまで意味を持っている。

「神の御業(みわざ)」というものを、信じたくなる気持ちも分かる。
見る程に、知る程に、そのつくりの精緻さ、巧妙さは、ただただ感嘆を誘うばかりである。
あまりにも見事であるそれ、人体の美しさに、私はしばしば見惚れてしまう。

最も優秀な人間たちが集まり、精一杯知恵をしぼり作ったとしても、きっとこれほど合目的的で無駄のないものは作れないだろう。
自然の造形とは、それほどに素晴らしい。

何が言いたいか、おわかりだろうか?。
この御業とひき比べるなら、人間が、「治そう」としていることなんて、まだまだおこがましい、幼児の戯れのようなものなのではないか、ということだ。
そういう謙遜と無欲な心情でもって、私たちはあがき続けるべきなのではないか、ということである。

幼児のような無垢が、むしろ自然の奇跡への近道だったりするのかも知れない、と、最近私は思っている。
おごれる者は、これから最も遠くに在る気がする。

「治りたい」という欲に縛られることなく、けれど「治る」という希望を決して捨てることなく、歩いていきたい。
未熟な人間の、けれど偉大な人間の、可能性を信じて、命ある限り。


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