< -「安かろう悪かろう」?- >




突然の激しい秋の嵐の1日。その翌朝、街を歩いた。

駅前通りに、折り重なるように放置された、おびただしい数の壊れた傘の群れがあちこちにあった。
こんな景色を見るのははじめてだ。

これを見て何を思うか?。
風雨の凄まじさ、壊れたからといってその場に投げ捨てていくというモラルの低さ。
それも無論のことながら、それに加えて私は、デフレーションに思いを至らせる。

打ち捨てられた傘のほとんど全部が、安物のビニール傘であったから。


「価格破壊」という言葉も懐かしく響くほど、デフレの時代となってから長い時間が経った。

安売り店が増えて日常の風景に溶け込んだ。
今や100円・90円ショップもどこにでもある通常の店舗形態のひとつだ。スーパー・量販店でも、以前には考えられもしなかったほどの安い価格が、むしろ当たり前となりつつある昨今である。

洋服にしても傘にしても、かつては4桁以上の価格が当たり前だったと思うが、今では100円単位の額でさながら投げ売りのように売られている。


日本人はほんとうに器用だ。
勤勉で精緻な企業努力によって、これでもかこれでもかというコストダウンを成し遂げてしまう。
できあがった製品は、その値段だとは信じられないほどの、見事な出来映えだ。

それでも、少なくとも材料費を(場合によっては技術費も)削った影響は、製品に反映されないわけにはいかない。
値段が大幅に下がれば、製品の「質」も必ずどこかしらその分低下する、というのが自明の理であろう。


例えば、ホームセンターで組み立て式の棚を買った時のこと。
数年前に同じ物を買ったときと比べて、明らかに短くなったネジに、減った留め金の数に、薄っぺらになった裏板に、驚いた。

100円で買った櫛は、先端を硬い物に引っ掛けたら簡単に割れた。

子供の傘の骨が「おれたからなおして」と言われて見たら、なんと金属ではなくプラスチック製の棒でできていた。

同じく大半プラスチック製の洗濯ハンガーは、半年と経たないうちに風雨で劣化して、洗濯バサミの細い所が次々に欠けた。

「なんでこんなちゃちなものを作るのか!」と驚きあきれた記憶。
ここ数年に自分のした買い物からすぐに思い出せるだけでも、これだけある。
以前にはこんなことはなかった。
品物はもっと丈夫で、長持ちしたはずだ。


外観はおしゃれで立派だが、一見しては分からない部分で、耐久性が著しく劣っている。
それがデフレ時代の商品の特徴と言えるかもしれない。


この頃では1本300円で買えてしまったりする、傘。
これでは、作る方に良いものを作れと言っても無理な話だし、買う方にも長く大切に使おうという気持ちは育ちようもない。
今日の雨が凌げればいい、という使い捨て感覚にしかならないのではと思う。

それを、「使えるものが安く手に入る」というふうにただ喜んでいて、それでいいのだろうか?。

私たちは文明の成熟期にあって、地球の資源を使い切る日も遥か遠くではないのであろうに。


人間の精神が抱く理想と、生活の中での日々の現実。
その2つが矛盾してしまうのは世の常であるけれど。
それでも私たちは、経済に踊らされ、毎日の欲望を満たすことに流されてだけいては、いけないのだと思う。
そうではないだろうか?。


そんなことを考えている私は、20年以上も前に購入した昔の傘たちを、いまだに持ち歩いている。(自慢ではない)

古いデザインの傘はちっともお洒落ではないけれども、丈夫だ。風の強い雨の日なら、この方がずっと頼りがいがある。
折り畳み傘も、余りコンパクトにならなくて、鞄からはみ出してしまったりする代物である。邪魔だと言えば邪魔だけれども、それだけの理由で捨ててしまうには忍びない。

娘の傘は、流行遅れでは可哀想だと思うから、買うのだけれど、自分の傘は、なんだかもったいなくて買う気にならない。
使える傘のある内は、新しいものは買わずにいよう、と何となく思っている。


最近の物が駄目だ、と言いたいのではないことは、賢明なる読者諸氏は分かって下さるだろう。
新しいものほど進歩しているのが道理である。たとえ廉価なものでも、その値段に比するなら、素晴らしい性能を持っていると言えるものであると私は感じている。

ただ思うのは、消費者も生産者も流通業者も私たちみなが、「安いのがいい」という考えに捕われ過ぎるようになっているのではないかなあ、ということだ。

より少ないお金で同じ物が買えるなら、それは確かに嬉しいことだ。
だけど、みんながそういう考えばかりをしていると、文化や社会はむしろ貧しくなっていったりはしないだろうか。


だってお金は、ものの値打ちを計る、対価なのだから。
対価は、提供されたものの価値に相応して、支払われるべきだと、私は思う。

なぜならば、そうでなければ、提供者の努力は報われないはずだ。
物に限らずサービスであってもそうだ。すべからく消費者に提供されるものは、それを生産し流通させている全ての人たちの、努力の賜物なのである。


私たちは少し忘れかけているのではないだろうか。
ものの質を(ブランドの名前などの看板ではなく中身の実際を)自分自身で見分ける目を持ち、評価し、その質の高さにあえてお金を出す、そういう気持ちを。

軌道修正をしよう。提供者の意欲や生活という人的資源を、限りある地球の物的資源を、枯渇させないうちに。
長く豊かに続く、明日のために。

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