〜って、どうなんでしょう?






皆さんから頂戴する質問の中に、時々、こういうものがある。
「〜って、どうなんでしょう?。」

「〜(治療施設の名前)って、どうなんでしょう?。」
「〜(治療法の名前)って、どうなんでしょう?。」
「〜(薬の名前)って、どうなんでしょう?。」


「どうって、何がどう?。」と、私は意地悪に答えたくなる。
これらの質問を見て、家の娘も言った。「何が聞きたいんですか?。」と。

なぜ、こういう聞き方をするのだろう。
私なら決してしない、しようと思いつきもしないだろう質問形式だ。
だが、聞かれた以上どう答えるべきか考えるので、私はその意図を推測することになる。

質問者が知りたいのは、結局のところ、件(くだん)の治療が、「効くのかどうか」ということなのだろうと思う。
そしてさらに率直に言うなら、「自分がその治療を受けると良くなるかどうか」であるだろう。

ならばそのようにはっきり聞けばいい。
なぜにそうでなく、このような曖昧模糊(あいまいもこ)とした聞き方をするのか?。
それがまた1人や2人でなく、何度も出くわす質問形式なのだから、驚きを禁じ得ない。

このサイトの掲示板では、「〜は効くか?」という話や、個人の医療相談をしないで、とお願いしている。
だからもしかしたら、その禁則の網をすり抜けて質問しよう、と思っての人もいるのかも知れない。
しかし、メールでもこういう聞き方をしてくる人たちがいるのだ。
彼らは、意図的にではなく、むしろ無意識に、こういう曖昧な言い方を選んでいるように思われる。


大概の場合、彼らは、その治療に関して全く無知ではない。
ある程度、それについて調べたり読んだり聞いたりして知っていて、にもかかわらずどうしてだか、それに対して判断ができないでいる。

自分で判断しかけてはいるけど、その判断に自信が持てず、他者の見解を聞きたい、という人がいて、そういう人は、自信がないために多くのことを書けないでいるのかもしれない。

だが、多くの場合は、そうではないように私には見える。
自信がないからよりも、別の理由があるのだ。
それは、主体性の不足である。

こうした質問をする人は、判断を私に丸投げしたがっている。
いいか悪いか、私に決めてもらおうと思っている。

違うだろうか?。多分違わないと思う。
だってその人たちは皆、「私は判断しません」と返事をすると、それ以上何も言ってくることができない。

できることなら、「いいものだから、するといいですよ。」というお墨付きを貰いたい。
そうでなければ、「こりゃだめですよ。」という全面否定をして欲しい。

それは無理だ。
一言で片付けられるようなものなら、私はそのように書く。
そうしていないのは、一言で片付けられないからに他ならない。

現在、アトピー性皮膚炎を早期に簡便に確実に治癒させるような、治療というものはない。
どんな治療も次善の策であり、欠点がある。
治せなかったり、効くかどうか分からなかったり、副作用があったり、大変だったり、といった欠点だ。
それとともに、利点もあるという、ものである。

その利点と欠点をできる限り把握して、患者個々人が、自分の要望に最も適合するものを、自分で選んでいくしかない。
「まるごといい。」「絶対止めた方がいい。」なんていう短絡的な結論は、出せようはずもないのだ。


どうか、自分で考える手間を、惜しもうとしないで欲しい。
情報を集めることも、その真偽を見通そうとすることも、手間が掛かりエネルギーの要る、疲れる作業だ。
しかしそれは、自分の体のために、必要で意味のある作業だと、私は信じる。



ひとつ、アメリカの医学ドラマで見た、印象的なエピソードがある。
細部があやふやな記憶ではあるのだが、参考になると思うので書いてみる。

ピアニストが指を切断する事故に遭って病院に担ぎ込まれ、その指が見つかって縫合手術を受けた。
ところがその後、工事労働者がやはり指を切断されて現れ、ピアニストの手に縫い付けられた指は、この労働者のものだったことが判明する。

2人は医師から状況を知らされる。
その夜、労働者はピアニストの病室を訪ねる。
「おれさ、考えたんだけど・・。」
学歴に乏しく文章を組み立てるのが苦手な彼は、たどたどしく語り始める。

きみはピアニストだから、10本の指が必要だ。だけど自分は、指が1本なくても、今までのように仕事や生活を続けることができる。だからおれは、このおれの指をきみにあげようと思う。この指でまた、素敵なピアノ曲を弾いてくれ・・

そんなふうに労働者は言い、ピアニストはその申し出を感謝して受け入れる。

切断事故がそんなに続けて起きるか、とか、他人の指を移植して使えるようになるか、とか、設定の強引さは否めない話ながら、それをも気にさせなくするくらい、この労働者の語りは感動的だった。


医師のように、能力に恵まれたものにしか、重要な決断はできない、ということはないと思う。
誰もが自分で考え、自分のことを決めることができる。
そして悩んだ上のその自らの決断こそが、非常に尊いものだと思う。

私はこのサイトで、考えるための材料を提供する。
私の知る現状や、私の考えや、医学的な基礎知識などである。
これらや、その他の情報をもとに、自分が何をしたいのか、何を選ぶべきかを考えてみて欲しい。

残念ながら、楽な短絡路などはない。
何かに挑戦して、上手くいくかもしれないし、いかないかもしれない。
症状の改善をみる一方で、あるいは何かを失うかもしれない。
不安にも感じるだろう。
迷って、何が何だか分からなくもなるだろう。
それでも、自分の道は、自分で歩いていかなくてはならない。
それが、生きていく、ということだと思う。

皆さんの選択の先に、幸多からんことを。

2007.11.  




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