[不安の時代]



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心痛むニュースが続いている。
人間の身体の耐え得る限度を超えるほどの、激しい夏の暑さ。
度重なる台風に地震に豪雨と、相次ぐ大災害。

こんな時代にあって、私たちはどう生きればいいのだろう。


予想だにしない被害にあい、打ちのめされながらも、乗り越えようとする人たちがいる。
それを何かしら助けようと、行動を起こす人たちがいる。
距離を置いた立場で、それでも案じながら、見守る人たちがいる。

我が身に降り掛かったのでなかったことに胸をなで下ろしつつ、いつ自分に来るかも知れないという感じる不安を押し殺しながら、忙しい毎日に追われる人たちがいる。


いづれも、思いは同じだろう。
「天災よ、どうぞ起こらないで。普通に安全に、私たちは暮らしたい。」


聞く所によると、夏の南洋での気温が上昇すると、強い台風とその数が増えるという。
大気中の水蒸気の量が増加し、豪雨も増えるらしい。
ならばこれは、地球温暖化の招いた当然の帰結なのか。


また、最近身の廻りを見ていて気になることのひとつに、土がむき出しの地面が本当にへったなあ、ということがある。
道路も建物の周囲も、そこいら中舗装されてしまった地面は、水を吸い込むことができない。
降った雨水の処理は、ひたすら排水溝に依存する。
こうしたことも、都市部での水害の増加に一役かっているのではないかと思ったりする。


新潟の地震と、それ以前に降った大量の雨の関係はさだかではないだろうが、地震の規模と被害の大きさ・余震の強さや長さがかつてない水準であることは、ただの可能性以上の何かが起きているのかも、という不安を感じさせるのに足るものとなっているのではないだろうか。



便利さと快適さを求めて、人間は石油を多用し、結果的に地球温暖化の進行を余儀なくさせて来たし、都市化の一環として土地の舗装を進めても来た。
その人間の営み自体は悪いことではないし、それは歴史の必然でもある。
生物は生まれ、進化して知的となり、次第に文明を発展させていくものなのだから。


けれどもその過程で人間が行なって来たあらゆることは、正の効果とともに負の効果をも生み出す。
その負の効果は、人間の予想を超えていたり、人間の制御しきれないものだったりもするだろう。

そしてその行き着く先は・・・?。



何ものにも寿命がある。地球にも寿命があるだろうし、人類にもそうだろう。
誕生し、成長し、盛んとなり、そしていつか衰え行く。


人類の歴史を人の生涯に例えてみるなら、おそらくその中で、どう少なく見積もってもすでに中年以降の時期には差し掛かっているのだろうと思うのだ。
少し前にノストラダムスの大予言が、ある種の信憑性をもって人々の心をおびやかしたのも、20世紀が著しく文明の発展した時期であったればこそではないかと思う。


果てしなく続く人類の輝かしい未来を、無邪気に信じることは、今となってはとても難しい。

私たちは不安とともに在る。



現代を生きる私たちにできることは、地球の生命力を無駄遣いせず、人類の寿命を延ばすために、できうる限りの努力をすることだろう。

そしてまた個人として、自分の身に降り掛かったことと闘い、命ある限り自分なりに懸命に、生き続けることなのだろうと思う。



人間がじたばたしても、自然に勝つことはできない。
起きてしまったことは受け入れる他ない。
それは時によってどれほど苦しいことであるだろう。


それに、ひとたび知ってしまったことは、もう知らなかった昔に戻ることはできない。
肉体と精神への衝撃は心に刻み込まれ、不安となってその人を責め苛むだろう。

せめてそれを教訓として、できるだけ、再び起こることを避ける方策を講じるしかない。
それが人間に与えられた能力でもあるだろう。


けれどもきっと救いもある。
心の傷は、時間が癒す。
長い長い時間が掛かるし、忘れられることは決してないだろうが、衝撃の強さは、ゆっくりと次第に薄れて行く・・。



こんな大きな試練の場を見るにつけ、人間はひとりでは生きていけないものなのだなあ、と強く思う。

そばに誰かが居て共に嘆き合えること、或いは助け合えること、また、他の人たちが何かしら助けたいという気持ちを見せてくれることが、どれだけつらい心を強くしてくれることだろう。

そこに人間の豊かさを感じ、また人間として生きる意味を感じもする。



改めて自分の身の廻りの人を大事に思い、分かち合える一時一時を、慈しんで生きていきたいと思う。
そして、奪い合ったり傷付け合ったりするのでなく、助け合う生き方がしたい。


争っている場合ではない時代なのではないか、という気がする。

2004.11.  

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